2009年05月20日

世界に愛された日本〜教科書に載らない歴史D【敵兵を救出した武士道精神】


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■6.重油の海での漂流■

 駆逐艦「エンカウンター」は、旗艦「エクゼター」が停止した時、その「各艦適宜行動せよ」という命令に従い、単独での航行を続けた。艦長モーガン少佐は「エクゼター」の乗組員を救助すべきかと、一瞬迷ったが、「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」沈没の際の日本海軍の行動を覚えていたので、こう決断したのである。

 しかし、その「エンカウンター」も日本艦隊の追撃を受け、8千メートル東方の海域で、30分後に撃沈された。この時、20歳の砲術士官だったフォール卿は、こう証言している。

 艦長とモーターボートに乗って脱出しました。その直後、小さな砲弾が着弾してボートは壊れました。・・・この直後、私は艦長と共にジャワ海に飛び込みました。

 間もなく日本の駆逐艦が近づき、われわれに砲を向けました。固唾をのんで見つめておりましたが、何事もせず去っていきました。

 この時は、米蘭の潜水艦がジャワ海で行動しており、敵の攻 撃をいつ受けるか分からない状況では、国際法上は、海上遭難者を放置しても違法ではない。

「エンカウンター」の乗組員たちは、自艦から流出した重油の海につかり、多くの者が一時的に目が見えなくなった。その状態で、約21時間も漂流した。

■7.「これは夢ではないか」■

 そこに偶然、通りかかったのが、駆逐艦「雷」だった。見張りが「漂流者400以上」と報告した。工藤艦長は敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、「救助!」と命じた。

「雷」の手の空いていた乗組員全員がロープや縄ばしご、竹竿を差し出した。漂流者たちは、われ先にとパニック状態になったが、青年士官らしき者が、後方から号令をかけると、整然と順番を守るようになった。

 重傷者から救う事になったが、彼らは最期の力を振り絞って、「雷」の舷側に泳ぎ着いて、竹竿に触れるや、安堵したのか、ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。甲板上の乗組員たちは、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」と呼びかける。この光景を見かねて、何人かの乗組員は、自ら海に飛び込み、立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻き付けた。

 こうなると、敵も味方もなかった。まして同じ海軍軍人である。甲板上で「雷」の乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者もいた。無事、救出された英兵は、体についた重油を乗組員が布とアルコールで拭き取ってやった。新しいシャツと半ズボン、靴が支給され、熱いミルクやビール、ビスケットが配られた。

 フォールズ卿はこう回想している。

 私は、まさに「奇跡」が起こったと思い、これは夢ではないかと、自分の手を何度もつねったのです。

■8.「今や諸官は、日本海軍の名誉
あるゲストである」■

 間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられた。

 すると、キャプテン(艦長)・シュンサク・クドウが、艦橋から降りてきてわれわれに端正な挙手の敬礼ををしました。われわれも遅ればせながら答礼しました。

 キャプテンは、流暢な英語でわれわれにこうスピーチされたのです。

 諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなことである。

「雷」はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、たとえ遙か遠方に一人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止し、乗組員総出で救助した。水没したり、甲板上で死亡した者を除いて、午前中だけで404人、午後は18人を救助した。
乗組員約150名の3倍近い人数である。

 翌日、救助された英兵たちは、オランダの病院船に引き渡された。移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、またウィングに立つ工藤に敬礼した。工藤艦長は、丁寧に一人一人に答礼をした。兵のほうは気ままなもので、「雷」に向かって手を振り、体一杯に感謝の意を表していた。

■9.「サイレント・ネービー」の伝統■

 フォール卿は、戦後、外交官として活躍し、定年退職後、1996(平成8)年に自伝『マイ・ラッキー・ライフ』を上梓し、その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記した。

 平成15(2003)年10月、フォール卿は日本の土を踏んだ。
84歳を迎える自身の「人生の締めくくり」として、すでに他界していた工藤艦長の墓参を行い、遺族に感謝の意を表したいと願ったのである。しかし、あいにく墓も遺族も所在が分からず、フォール卿の願いは叶えられなかった。

 フォール卿から依頼を受けて、恵隆之介氏は3ヶ月後に、遺族を見つけ出した。
工藤俊作の甥・七郎兵衛氏は「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のことは口外しなかった」と落涙した。
サイレント・ネービーの伝統を忠実に守って、工藤中佐は己を語らず、黙々と軍人としての職務を忠実に果たして、静かにこの世を去っていったのである。
ーーーここまで引用ーーー


戦闘海域での救助活動は艦を停止して行わなければならず、その時こそ敵潜水艦にとって絶好のチャンスになります。

まして駆逐艦の薄い鋼板であれば一発の魚雷が致命傷になる危険がある訳です。
そのために沈没した僚艦の乗組員を救出しようとして攻撃を受け自分達が沈没、戦死してしまった事例も少なくありません。

まして米軍は日本海軍の艦艇だけでなく病院船まで攻撃し、脱出し漂流する看護婦にまで機銃掃射を加えているのです。
そのような中で帝国海軍、並びに駆逐艦雷の工藤俊作艦長のとった救出活動は敵国であった英国の兵士達に「日本の武士道精神の実践」と賞賛され讃えられています。

また、サミュエル・フォール氏(89)は昨年暮れの2度目の来日の下りに無事、工藤俊作艦長の墓参りをされ墓前にてお礼を述べられました。

その際には英国の騎士道の形式でお参りをされ、正に日本の武士道精神と英国の騎士道精神が結んだ両国の絆と言えるでしょう。

自らの危険を顧みず、敵兵を救出した工藤俊作艦長の示した武士道精神。

日本人として、とても誇りに思うと共にその精神を継承していかなくてはならないと感じました。



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