2009年06月12日

世界に愛された日本〜教科書に乗らない歴史E 【太陽と月とペリリュー島に咲く桜】

ペ島の桜を讃える歌
〜ペリリュー島に咲く桜〜

ペリリュー島民は日本とともにアメリカと戦う事を決意したという。 しかし日本軍はこれを押し止め、船舶の乏しい中、空襲を避けつつ夜間を利用して全員をパラオ本島へ避難させた。

その当時の日本兵と島民の間での有名なエピソードです。

【日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌っていた村人は、仲間たちと話し合った。
そして村人たちは、大人も子供も、一緒になって日本軍とともに戦おう。
そう決めた彼らは、代表数人とともに、日本の守備隊長である中川州男大佐のもとを訪れます。
平素、温厚な中川隊長なら、自分たちの一緒に戦うという頼みを聞いてくれるに違いない。
そして中川隊長に、「自分たちも一緒に戦わせてほしい」と申し出た。
それを聞いた中川隊長は、瞬間、驚くような大声をあげた。「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」
…驚いた。日本人は仲間だと信じていたのに、みせかけだったのか…。
村人たちは、日本人に裏切られた思いで、みんな悔し涙を流した。
そして、日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきた。
港には、日本兵はひとりも、見送りに来ない。
村人たちは悄然として船に乗り込んだそうです。
そして、汽笛が鳴る。
船が岸辺を離れた…
次の瞬間、ペリリュー島に残る日本兵全員が、浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送った。

そのとき、船上にあった村人たちは、わかった。
日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。
涙が出た。
岸辺に見える日本兵に向かって、村人たちは、号泣しながら、手を振った。
誰もが泣いた。ちぎれるほどに手を振った。】

image/2009-06-12T00:02:421

(中川州男大佐
1898年1月23日 - 1944年11月24日
享年47才)


ようやく戦闘が終わったペリリュー島へ戻った住民たちは、恐るべき光景を目の当たりにした。 米軍の激しい絨毯爆撃により、その形を変えていた珊瑚の島と、そしてそこに転がるおびただしい数の日本兵の遺体。 島の人々はこれを見て涙を流したという。 「アメリカ人は、日本人の遺体には見向きもせず、自国兵の遺体だけを整理した。ここに、征服民族の本性を見る」として、島民はこぞって日本軍の遺体を弔い、墓地を作ってくれたのである。 そして日本人が、いつ訪れても良い様にと、その後も墓地の清掃に心掛けてくれていた。 現在でも島民の親日感情は極めて強く、日本統治時代を懐かしみ、「愛国行進曲」を間違わずに歌って聴かせ、日本人と見れば、「日本という国は何千年来の伝統を持ち、独自の文化を創りあげてきた。その結晶が天皇と教育勅語だ」という趣旨を熱く語り、日本人の度胆を抜くという。 1981年(昭和56年)一月、パラオ共和国の憲法が発布された。 ペリリュー兵士の歌「ペ島の桜を讃える歌(作詞者:オキヤマ・トヨミ氏、ショージ・シゲオ氏)」も作られた。

激しく弾雨(たま)が降り注ぎ オレンジ浜を血で染めた
強兵(つわもの)たちはみな散ってペ島(じま)は総て墓地(はか)となる

小さな異国のこの島を死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない

将兵(ヘいし)は“桜”を叫びつつこれが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ別れの“桜”に意味深し

日本の“桜”は春いちど見事に咲いて明日(あす)は散る
ペ島(じま)の“桜”は散り散りに玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に

今守備勇士(もののふ)の姿なく残りし洞窟(じんち)の夢の跡
古いペ島(じま)の習慣で我等勇士の霊魂(たま)守る

平和と自由の尊さを身を鴻(こな)にしてこの島に
教えて散りし“桜花”今では平和が甦る

どうぞ再びペリリューヘ時なし桜花(さくら)の花びらは
椰子の木陰で待ち佗(わび)しあつい涙がこみあげる

戦友遺族の皆さまに永遠(いついつ)までもかわりなく
必ず我等は待ち望む
桜とともに皆さまを

ペリリュー島に桜の木はない。 桜を見た事のある者は皆無といっていい。 彼らの、ペリリュー島の玉砕戦を日本の国花・桜に託し、見事に謳いあげた歌詞である。 サクラ・サクラという最後の電文を打って、文字通り集団の桜花のように散っていった彼ら一万余の英霊も、もって冥することが出来るといえる。 翌年1982年(昭和57年)、「青年神職南洋群島慰霊巡拝団」20名が船坂弘氏の助力を得て、ペリリュー神社が建立された。 日本から運搬した材料を使い、島民の多大の協力を得て、10日間を費して完成した。 御祭神は天照大御神と戦没者の一万余柱の「護国の英霊」である。 また、ペリリュー神社には米軍ニミッツ元帥による以下の日英2文が記されている。
「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.」
「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を…」

終戦とパラオ下院議員イシドウロウ氏
〜アメリカ信託統治から悲願の独立へ〜
日本は敗戦した。 パラオの首都コロールに、米軍が進駐して来て最初にやったことは、イシドウロウ氏のご両親が毎日お参りしていたという南洋神社を破壊することだった。 ご両親は悲しみに暮れ、この子が大きくなったらきっと再建してくれると期待し、神社の入り口にあった大きな石灯籠(いしどうろう)に因んでイシドウロウと命名したのだった。 パラオの電話帳を広げると多くの人が日本に縁のある名前を持っている。 そして、その一つ一つに日本への深い想いが込められている。 戦後、1947年からパラオはアメリカの信託統治領となり、アメリカ人は現地に想像以上の日本文化が根付いていることに驚き、日本的なものをすべて破壊した。 南洋神社はもちろんの事、校庭の二宮金次郎(尊徳)の銅像は引きずり降ろされた。 日本人の耕した畑は掘り返され、道路も剥がされた。 1994年、パラオはアメリカから独立した。 独立にあたって国旗を制定することになり、国民の間から一般公募した結果、日の丸をもじった今の『青い海』と『満月』をデザインしたものに決まった。 「月と海」は愛、平
和、静穏、豊穣を表現するとともに
「月は太陽があってこそ輝く。我々パラオは月のように日本から命を受けて光っている」という意味が込められているという。 満月が少しだけ左に寄ってるのは、真ん中ではあまりに似すぎて日本に失礼との配慮からだという。 これはパラオの人たちの日本に対する慎み深い配慮と敬愛の意をよく表しているといえる。

image/2009-06-12T00:05:481

ーーーここまで引用ーーー


日本人は戦後のGHQの占領政策により徹底的に洗脳が施され、大東亜戦争は侵略戦争であり、大東亜共栄圏は侵略戦争を正当化する為の後付けである。という戦前の日本が掲げた理念を否定するかのような意見が横行しています。

しかし、ホントにそうだったのでしょうか?

フィリピン、インドネシア、タイ、インドそしてパラオ、他、東南アジアの国々の人達は皆、侵略者は白人であり、日本人は植民地化していていたその国々に技術と教育、そして資金を投入して近代化させて独立の基盤を作ってくれたことをわかっているのです。

各国々が日本に払ってくれている敬意を知るほどに、特定アジア三国のいう従軍慰安婦強制連行や南京大虐殺など、日本を貶めて自分達に都合の良い特権を生み出す為の政治カードとなっており、歴史的事実とは全く関係ない問題となってるいことがよくわかります。

歴史を抹殺された民族は溶解し滅んでいくことは歴史が証明しています。

抹殺された真実を知り、自分達の祖国と先人達に感謝の想いを持ち、日本人としての誇りを取り戻していくことが大切です。

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