2011年12月12日

世界に愛された日本〜教科書に載らない歴史?【世界に轟いた会津武士道】義和団事件と柴五郎

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■7.日本兵の勇気と大胆さは驚くべ
きものだ■

 王府防衛の有様を柴中佐の指揮下に留まっていたイギリス人義勇兵の一人B・シンプソンは次のように日記に記した。

 数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢の日本軍は、王府の高い壁の守備にあたっていた。その壁はどこまでも延々とつづき、それを守るには少なくとも5百名の兵を必要とした。しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付き武官のリュウトナン・コロネル・シバ(柴中佐)である。・・・

 この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。
彼は部下たちを組織し、さらに大勢の教民たちを召集して、前線を強化していた。実のところ、彼はなすべきことをすべてやっていた。ぼくは、自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じる。

 この後、王府を守る柴中佐以下の奮戦は、8月13日に天津からの救援軍が北京に着くまで、2ヶ月余り続く。睡眠時間は3,4時間。大砲で壁に穴をあけて侵入してくる敵兵を撃退するという戦いが繰り返し行われた。総指揮官マグドナルド公使は、最激戦地で戦う柴への信頼を日ごとに増していった。イタリア大使館が焼け落ちた後のイタリア将兵27名や、イギリス人義勇兵を柴の指揮下につけるなど迅速的確な支援を行った。

 6月27日には、夜明けと共に王府に対する熾烈な一斉攻撃が行われた。多勢の清国兵は惜しみなく弾丸を撃ちかけてくる。
弾薬に乏しい籠城軍は、一発必中で応戦しなければならない。
午後3時頃、ついに大砲で壁に穴を明けて、敵兵が喊声を上げながら北の霊殿に突入してきた。
柴は敵兵が充満するのを待ってから、内壁にあけておいた銃眼から一斉射撃をした。敵は20余の死体を遺棄したまま、入ってきた穴から逃げていった。
この戦果は籠城者の間にたちまち知れ渡って、全軍の志気を大いに鼓舞した。

 イギリス公使館の書記生ランスロット・ジャイルズは、次のように記している。

 王府への攻撃があまりにも激しいので、夜明け前から援軍が送られた。王府で指揮をとっているのは、日本の柴中佐である。・・・

 日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では柴中佐が最優秀と見なされている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵がこれにつづく。しかし日本兵がずば抜けて一番だと思う。

■8.安藤大尉の奮戦■

 王府を守りながらも、柴中佐と日本の将兵は他の戦線でも頼りにされるようになっていった。
アメリカが守っている保塁が激しい砲撃を受けた時、応援にかけつけたドイツ、イギリス兵との間で、いっそ突撃して大砲を奪ってはどうか、という作戦が提案され、激しい議論になった。そこで柴中佐の意見を聞こうということになり、呼び出された柴が、成功の公算はあるが、今は我が方の犠牲を最小にすべき時と判断を下すと、もめていた軍議はすぐにまとまった。
 イギリス公使館の正面の壁に穴があけられ、数百の清国兵が乱入した時は、柴中佐は安藤大尉以下8名を救援に向かわせた。
最も広壮なイギリス公使館には各国の婦女子や負傷者が収容されていたのである。

 安藤大尉は、サーベルを振りかざして清国兵に斬りかかり、たちまち数名を切り伏せた。つづく日本兵も次々に敵兵を突き刺すと、清国兵は浮き足立ち、われさきにと壁の外に逃げ出した。館内の敵を一掃すると、今度はイギリス兵が出撃して、30余名の敵を倒した。安藤大尉らの奮戦は、イギリス公使館に避難していた人々の目の前で行われたため、日本兵の勇敢さは讃歎の的となり、のちのちまで一同の語りぐさとなった。

 後に体験者の日記を発掘して「北京籠城」という本をまとめ上げたピーター・フレミングは本の中でこう記述している。

 戦略上の最重要地点である王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。・・・ 日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もあったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。

 当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城をつうじてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになった。

 日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本人だけである。

■9.コロネル・シバ■

 救援の連合軍が、清国軍や義和団と戦いながら、ついに北京にたどりついたのは、8月13日
のことだった。総勢1万6千の半ばを日本から駆けつけた第5師団が占めていた。その他、ロシア3千、英米が各2千、フランス8百などである。籠城していた柴中佐以下は、ほとんど弾薬も尽きた状態だった。

 14日、西太后の一行は西安に向けて脱出した。その午後、北京入城後最初の列国指揮官会議が開かれた。冒頭マグドナルド公使が、籠城の経過について報告した。武器、食糧の窮迫、守兵の不足、将兵の勇敢さと不屈の意志、不眠不休の戦い、そして公使は最後にこう付け加えた。

 北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである。

柴中佐が日本軍将兵と日本人義勇兵にこの言葉を伝えると、嗚咽の声が漏れた。誰もが祖国の名誉を守り、欧米の人々からも認められた誇らしい感情を味わっていた。

 柴中佐はその後も日本軍占領地域では連合軍兵士による略奪を一切許さず、その治安の良さは市民の間のみならず、連合軍の間でも評判となった。

 柴中佐には欧米各国からも勲章授与が相継ぎ、またタイムズの記者モリソンの報道もあいまってコロネル・シバは欧米で広く知られる最初の日本人となった。その後、総指揮官を務めたマグドナルドは駐日大使に転じ、日英同盟の締結を強力に押し進めていくことになる。柴中佐と日本将兵の見せた奮戦ぶりから、日本こそは大英帝国が頼みにするに足る国と確信したのであろう。


もちろん、同盟締結に至るには、複雑な世界情勢判断が最優先されたであろうことは間違いないし、外交を人情話に喩えるつもりもない。
ただし、柴五郎という堂々たる日本人がいたという事実の重みが、白色人種至上主義の時代の外交における人種偏見を打破する契機となったこともまた、事実なのである。
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当時のイギリスと言えば、世界の面積の4分の1を植民地とする大英帝国として君臨する大国であり、遅れて世界の舞台に踊り出たアジアの小国、日本と同盟を締結するなど常識では考えられない稀有な出来事だったのです。

そして、この日英同盟があったからこそ、後の日露戦争の際に、日本は欧米諸国からの支援を受け、ロシアに勝利し世界列強の仲間入りを果たすことが出来た訳です。

言わば、会津武士道の体現者であった柴五郎の存在が、日本という国が列強国の植民地化することを防ぎ、世界の中の大国として生き残っていく為の、大きな役割を果たしている訳です。

日本という国土に生まれ育った純粋な日本人が、例えば、皇室、天皇家と聞くと自然と尊く敬しい存在として感じ取る、日本人としてのDNAを受け継いでいくように、それぞれの地方においても、その土地の風土や精神性というものは受け継がれていくものと思います。

柴五郎という、その名を世界に轟かせた会津武士道を受け継ぐ福島の皆さんなら、原発と放射能のフクシマから、元の美しい福島へ必ず、復興を成し遂げることでしょう。
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