2011年12月12日

世界に愛された日本〜教科書に載らない歴史?【世界に轟いた会津武士道】義和団事件と柴五郎

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本日は久しぶりに
「世界に愛された日本〜教科書に載らない歴史シリーズ」
をお送りしたいと思います。

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明治維新以降、欧米世界の中で最も早くその名を知られた日本人は誰かご存知だろうか。
白色人種至上主義が当然とされ、黄色人種というだけで差別されることが当然だという、恐るべき偏見が支配していた時代にあって、世界に名を轟かせた日本人がいたのだ。
実は、それは乃木希典大将でも、東郷平八郎元帥でもなかった。
義和団事件の際に活躍し、欧米社会に名を轟かせた日本人がいたのだ。
その名を柴五郎という。

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柴五郎

柴五郎は強運の人であると同時に悲劇の人でもあった。
会津の武士の家に生まれた柴は十歳の時に、戊辰戦争を迎えている。偶然、親戚の家に松茸狩りに出かけている最中に戦争は勃発した。この戦いで彼は自身の祖母、母、兄、姉、妹を亡くしている。兄は戦死であったが、他の女性は全て西軍の侵攻を前に自害して果てたのだ。
柴家の男達は戦い、女達は自害した。壮絶な会津武士道というべきだろう。

戊辰戦争後、敗北した会津藩士達は、極寒の地斗南(現在の青森県むつ市)に移住されられた。そこは豊かな故郷会津とは異なり、火山灰土の風雪厳しい不毛の土地であった。
柴五郎も斗南に移住し、、極貧生活を送っている。冬の厳しい寒さの中、満足な防寒対策も出来ず、僅かで粗末な食事だけで何とか生き延びたのだ。
当時の柴家の生活を調べてみると、よくぞ生き延びることが出来たと思わずにはいられないほどの経済状況、生活環境にあったといわざるえない。
こうした環境下で、柴五郎は、人々の暖かい支援の下、何とか東京へ出る。だが、東京に出たものの、食べていくことに必死という状況が続く。
彼に転機が訪れるのは、学費の必要のない陸軍幼年学校に入学した時である。

軍人としてトントン拍子で歩んだ柴の名が世界に知れ渡ることになるのは、義和団事件における彼の奮戦が凄まじかったからである。

■1.唐突な日英同盟締結の背景■

 ちょうど100年前の1902(明治35)年1月30日、日英同盟が成立した。同盟締結を推進したのは、駐日公使マグドナルドであった。マグドナルドは前年夏の賜暇休暇にロンドンに帰るとソールズベリー首相と何度も会見し、7月15日には日本公使館に林菫公使を訪ねて、日英同盟の構想を述べ、日本側の意向を打診した。マグドナルドは翌日も林公使を訪問して、イギリス側の熱意を示した。それからわずか半年後には異例のスピードで同盟締結の運びとなった。

 イギリスが日本と結んだのは、ロシアの極東進出を防ぐという点で利害が一致したからである。しかし、当時の超大国イギリスがその長年の伝統である「光栄ある孤立」政策をわずか半年で一大転換し、なおかつその相手がアジアの非白人小国・日本であるとは、いかにも思い切った決断である。その背景にはマグドナルド公使自身が一年前に経験した一大事件があった。

■2.義和団の地鳴り■
 1885(明治28)年、日清戦争に敗北して、清国が「眠れる獅子」ではなく「眠れる豚」であることを露呈するや否や、列強は飢えた狼のようにその肉に食らいついていった。三国干渉により日本に遼東半島を返還させると、それをロシアがとりあげ、同時にドイツは膠州湾と青島、フランスは広州湾をむしりとる。イギリスは日本が日清戦争後にまだ保障占領していた威海衛を受け取り、さらにフランスとの均衡のためと主張して香港島対岸の九龍をとった。

 こうした情況に民衆の不満は高まり、義和団と称する拳法の結社があらわれた。呪文を念じて拳を行えば、刀槍によっても傷つくことはない、と信じ、「扶清滅洋(清国を助け、西洋を滅ぼせ)」をスローガンとして、外国人やシナ人キリスト教徒を襲うようになっていった。

 1900(明治33)年5月28日、義和団の暴徒が北京南西8キロにある張辛店駅を襲って、火を放ち、電信設備を破壊した。
北京在住の列強外交団は、清国政府に暴徒鎮圧の要求を出す一方、天津の外港に停泊する列国の軍艦から、混成の海軍陸戦隊400名あまりを北京に呼び寄せた。日本も軍艦愛宕からの25名の将兵が参加した。今風に言えば多国籍軍である。

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義和団事件に出兵した連合軍の兵士達
左からイギリス・アメリカ・ロシア・インド・ドイツ・フランス・オーストラリア・イタリア・日本


 6月4日、北京−天津間の鉄道が、義和団によって破壊された。北京の外交団は万一の場合の脱出路を奪われた形となった。
すぐに2千の第2次混成部隊が出発したが、鉄道の修復時間がかかり、いつ北京にたどり着けるか、分からない状態だった。

■4.義和団の来襲■

 6月11日、日本公使館の杉山書記生が惨殺された。救援部隊が来ないかと北京城外に出て、戻ろうとした所を清国の警備部隊に捕まり、心臓を抉り抜かれ、その心臓は部隊長に献上された。外交団は治安維持の頼みとされていた清国官憲までも外国人襲撃に加わったことに衝撃を受けた。

 13日、公使館区域に4,5百人の義和団が襲いかかった。
おおぜいたむろしている清国官兵は、見て見ぬふりをしている。
しかし刀や槍を振り回す暴徒は、列国将兵の銃撃に撃退された。
14日、怒った暴徒は、公使館区域に隣接するシナ人キリスト教民の地域を襲った。凄まじい男たちの怒号と、女子どもの悲鳴が公使館区域まで聞こえてきた。一晩で惨殺された教民は千人を数えた。

 15日、タイムズの特派員G・モリソンはイギリス公使マグドナルドを説き、20名の英兵を率いて5百人余りの教民を救出してきた。しかし、それだけの人数を収容する場所がない。
困ったモリソンが、シナ事情に詳しそうな柴中佐に相談すると、柴は即座に公使館地域の中央北側にある5千坪もの粛親王府を提案した。粛親王は開明派で、日本の近代化政策を評価していた。柴が事情を話してかけあうと、教民収容を快諾した。

 この王府は小高くなっており、ここを奪われれば、公使館地域全体を見下ろす形で制圧されてしまう。この事に気づいていた柴は教民たちを動員して保塁を築き始めた。欧米人と違って、日本人の多くはシナ語を話せたため、彼らは日本兵によくなつき、熱心に協力した。また30名ほどの義勇兵も出て、日本軍と共に自衛に立ち上がった。

■6.清国軍も攻撃開始■

 6月19日、シナ政府から24時間以内に外国人全員の北京退去を命ずる通牒があった。抗議に赴いたドイツ大使は清国兵にいきなり銃撃され、即死した。

 20日午後からは、地域の警備についていた清国軍が公然と攻撃を始めた。暴徒とは異なり近代装備を持つ清国軍は大砲まで持ち出して、公使館区域を砲撃した。

 最初の2日間の戦いで区域の東北端に位置するオーストリーとベルギーの公使館が火を放たれて、焼かれた。西正面と北正面を受け持っていたイギリス兵は、イギリス公使館が西から攻撃を受けると、そちらに移動してしまった。

 北正面ががらあきとなり、清国軍が侵入するには絶好の隙間が生じてしまった。少数の日本将兵と教民たちがたてこもる北辺の粛親王府が破られれば、そこから清国軍は区域全体を見下ろし、砲撃することができる。清国軍は激しい攻撃を加えてきた。

 区域全体の総指揮官に推されたイギリス公使マグドナルドは、粛親王府の守備を固めるために、イタリア、フランス、オーストリー、ドイツの兵に柴中佐の指揮下に入るよう命じたが、兵達は土地は広く、建物は迷路のように錯綜する王府を見ると、「とてもじゃないが守りきれない」とそれぞれ自国の公使団保護に帰ってしまった。



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