2011年04月07日

戦艦大和並びに第2艦隊の亡くなられた英霊を追悼し魂の平安なることをお祈り致します。(再掲)

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本日4月7日は64年前、天一号作戦(菊水作戦)において出撃した連合艦隊第2艦隊、戦艦大和と護衛の9隻の艦からなる水上特攻部隊と、アメリカ海軍の空母艦載機との戦闘による坊ノ岬沖海戦(ぼうのみさきおきかいせん)にて戦艦大和が撃沈された日です。
戦死者は伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将) 有賀幸作艦長(同中将)以下2,740名、生存者269名または276名
『戦史叢書』「沖縄方面海軍作戦」による。
『大和ミュージアム常設展示図録』による。
ここにこの戦いにおいて亡くなられた英霊を追悼し安らかならんことを祈ります。

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【参加兵力】
日本海軍
日本軍では、作戦のために第2艦隊からなる第1遊撃部隊が編成され、水上特攻を担当する部隊となった。出撃した部隊は以下の編制であった。参加兵力は計4,329名。平均年齢は27歳であったという。
第1遊撃部隊
(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)
第1戦隊
戦艦大和
(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐、砲術長:黒田吉郎中佐)
:沈没。
被雷8本以上、直撃弾10発以上。戦死2,740、戦傷117名。
第2水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将)
軽巡洋艦矢矧(艦長:原為一大佐)
:沈没。被雷7本、直撃弾12発。戦死446、戦傷133名。
※矢矧に座乗していた第2水雷戦隊司令官古村啓蔵少将、矢矧艦長原為一大佐は、ともに生還。
第41駆逐隊(司令:吉田正義大佐)
冬月(艦長:山名寛雄中佐)
:帰還。
中破。直撃弾2発(不発)。戦死12、戦傷12名。涼月(艦長:平山敏夫中佐)
:帰還。
大破、艦首部に直撃弾を受け大破。後進で佐世保に帰還。戦死57、戦傷34名。
第17駆逐隊(司令:新谷喜一大佐)
磯風(艦長:前田実穂中佐)
:至近弾により機関室浸水。
航行不能になり処分。戦死20、戦傷54名。浜風(艦長:前川万衛中佐)
:沈没。
被雷1本、直撃弾1発。被弾で航行不能になった後、被雷し轟沈。戦死100、戦傷45名。
雪風(艦長:寺内正道中佐)
:帰還。
至近弾のみ。損傷無し。戦死3、戦傷15名。
第21駆逐隊(司令:小滝久雄大佐)朝霜(艦長:杉原与四郎中佐)
:機関故障を起こし艦隊より落伍、正午過ぎに敵機と交戦中との無電を発信後連絡が途絶える。撃沈されたものと推定。
隊司令及び艦長以下326名全員戦死。
初霜(艦長:酒匂雅三少佐)
:帰還。
至近弾のみ。損傷無し。戦傷2名のみ。霞(艦長:松本正平少佐)
:直撃弾2発。
うち1発が機関室直撃、破壊。航行不能により処分。
戦死17、戦傷47名。
対潜掃討隊
(瀬戸内海離脱後、命令により反転帰還)
第31戦隊(司令官:鶴岡信道少将)
花月(艦長:東日出夫中佐)
榧(艦長:岩淵悟郎少佐)
槇(艦長:石塚栄少佐)
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アメリカ海軍
第58機動部隊
(司令官:マーク・ミッチャー中将)
空母9隻
(エンタープライズ ホーネット、ベニントン、ベローウッド、サンジャシント、エセックス、バンカーヒル、ハンコック、バターン、イントレピッド、ヨークタウン、ラングレイ)
戦艦6隻
(マサチューセッツ、インディアナ、ニュージャージー、サウスダコタ、ウィスコンシン、ミズーリ)
その他の支援艦艇
(大型巡洋艦アラスカ、グアムと多数の駆逐艦)
攻撃参加空母艦載機 386機
【時系列】
4月5日 13:59 第1遊撃部隊に出撃準備下令。
4月6日 15:20 第1遊撃部隊が徳山沖を出撃。
19:45 第1警戒航行序列(対潜序列)。
20:20 磯風が敵潜水艦らしきものを発見。
第二艦隊米潜に発見される。
4月7日 06:00 第3警戒航行序列(対空序列)を取る。
06:30 大和が唯一搭載していた零式水上偵察機を本土に帰還させる。
06:57 朝霜(第21駆逐隊司令座乗)が機関故障のため随伴不能となり艦隊より離脱。
06:30頃-10:00頃 第5航空艦隊所属の零戦部隊による艦隊上空直衛が交代で実施される。この間、奄美諸島近海に展開していたアメリカ海軍第58機動部隊から、作戦機約400機からなる攻撃隊が、第1次攻撃隊と第2次攻撃隊とに分かれて、相次いで出撃する。
10:00頃 第1遊撃部隊が米軍の飛行艇2機に発見される。その後、艦隊は、米高速空母機動部隊から攻撃隊に先駆けて出撃したF6F戦闘機、F4U戦闘機計10数機の接触を受けながら、偽装航路を中止し、沖縄に向けて南下する。
11:35頃 大和に搭載された対空電探が、約100キロの距離にいる米軍艦上機の大編隊の接近を探知する。
12:10   落伍した朝霜より「ワレ敵機ト交戦中」との無電が入る。12:15   大和以下の各艦が総員対空戦闘配置を完了する。
12:21   朝霜より「九十度方向ヨリ敵機三十数機ヲ探知ス」との無電連絡が入る。この後同艦は消息を絶った。
朝霜は、この直後に沈没したと推定される(単艦戦闘で生存者がいないため最期の戦闘の詳細は不明)。
12:30頃 敵攻撃隊の大編隊が雲間から降下し、第1遊撃部隊上空へ殺到し始める。第一次空襲始まる。
12:35頃 大和以下の各艦が対空戦闘開始。
12:47  浜風轟沈。この頃、大和後部に初弾命中。電探室および主計課壊滅。矢矧航行不能
13:00  第一次空襲終了。
13:22  敵機群第二波約50機来襲。
13:33  第二次空襲始まる。
大和左舷に魚雷3本命中。
大和の副舵が取舵のまま故障(後に舵中央で固定)。
13:56  磯風、航行不能
14:05  矢矧沈没。
14:20  大和、左舷に傾斜20度、総員最上甲板が命ぜられる。

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伊藤長官が長官室に向かう。
14:23 大和沈没(左舷側へ大傾斜、転覆ののち、前後主砲の弾火薬庫の誘爆による大爆発を起こして爆沈)。
14:23  伊藤中将戦死により第1遊撃部隊指揮権を先任指揮官の古村少将が承継。
14:25  アメリカ軍の攻撃が終了。
16:39  作戦中止が下命される。
16:57  霞沈没(砲雷撃により処分)。
17:42  初霜が第2水雷戦隊司令官を救助。
22:40 磯風を雪風の砲雷撃により処分。
4月8日 冬月、雪風、初霜及び涼月が佐世保軍港に帰投。
現在の大和は、北緯30度43分、東経128度04分長崎県男女群島女島南方176キロ 水深345mの地点に眠っている。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参考

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「進歩のない者は決して勝たない。
負けて目覚めることが最上の道だ。
日本は進歩というものを軽んじすぎた。
私的な潔癖や徳義にこだわって真の進歩を忘れていた。
敗れて目覚める。
それ以外にどうして日本は救われるか。
今目覚めぜずしていつ救われるか。
俺たちはその先導になるのだ。
日本の新生にさきがけて散る。
まさに本望じゃないか。」

沖縄への出撃前夜、自分たちの出撃にどんな意味があるのか口論になった士官たちに臼淵巌大尉が言った言葉です。

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彼等は生還の見込みのない自分達の出撃に「きっと後に残った者達が日本の復興を担ってくれる」と希望を託して行ったのだと思います。

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日本が目覚めることを信じ、未来の日本人へ日本を託し散っていった先人達の思いに今、私達は応えているでしょうか?

しっかりと考えなおさなければならない時期に来ていると思います。

*本日の記事は2009年4月7日にエントリーしたものに加筆、修正をしたものを新たにエントリーさせていただきました。

こちらの記事も良ければあわせてお読み下さい。
広島県呉市の海軍墓地へお参りに行って来ました。

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2010年04月08日

昨日、広島県呉市の海軍墓地へお参りに行って来ました。

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昨日、4月7日は戦艦大和を旗艦とする帝国海軍、連合艦隊最後の艦隊、第二艦隊が坊の岬沖海戦にて米軍機動部隊と壮絶な戦闘の果てに最後を迎えた日です。

昭和20年、大東亜戦争末期、物資や燃料が乏しく米軍の進行を最早抑えることは難しく、沖縄への上陸作戦を展開する米軍への水上特攻作戦でした。連合艦隊の組織的な最後の海戦です。

この海戦を最後に連合艦隊は事実上の壊滅に等しい状況となります。

この戦闘で、大和だけでは3076名、第二艦隊全体で4000名近い方々が犠牲となられています。

私はこの海戦で亡くなられた方々の慰霊に少しでもなればと、ささやかな行為ではありますが昨日、広島県呉市の海軍墓地へお参りに行かせていただきました。


本日はそのご報告です。
呉市には朝の10時頃に到着。

まずは、最初に大和ミュージアムに行かせてもらいました。

駅からミュージアムまではコンコースで繋がっており約5分程の距離です。

コンコースの両脇には「戦艦大和の街、呉へきんさい!」と書かれた小さめの旗がコースに沿って掛けられており、大和の街へやって来たと実感します。


ミュージアムに着くと、入り口前の広場には、柱島泊地で謎の爆沈を遂げた戦艦陸奥の引き上げられた実物の主砲やスクリューなどが展示されています。
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入館するとすぐに大和広場、実物の10分の1、26.3メートルの戦艦大和が迎えてくれます。
10分の1スケールといってもその大きさは壮大です。

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当時の乗組員が大和は浮沈艦だ。と本気で信じていたのも頷ける壮大さです。

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順路に沿って中を見学していきます。

最初は軍港都市として栄えた呉の歴史から始まるのですが、すすんで行くにつれ、大和に関する展示になっていきます。


最初は大和の建造について。

大和の建造に関わった人物や現存する建造計画書の一部などが展示されいます。

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次は、現在の大和として東シナ海の340メートルの海底に沈んでいる大和を海底調査を行い発見した時の様子や引き上げられた遺品、構造物の一部などが展示されています。

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続いて、当時の大和の乗組員だった方々の写真が展示されています。

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乗組員の遺書や第二艦隊指令長官であった伊藤整一中将が実際に着用していた軍服などが展示されています。

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靖国の遊就館を彷彿させられますが、ここに展示されているのは生還した方々もあり、遊就館のように遺影ばかりではないようです。


また、その他には戦艦長門や日向などに実際、掲揚されていた軍艦旗などもありました。

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長門の軍艦旗

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日向の軍艦旗


そして、戦後産業都市として復興を遂げた呉の様子で1Fの展示コーナーは終わります。


展示室から出るとそのまま、今度は大型展示物の展示コーナーに入ります。

ここには、零式艦上戦闘機や特殊潜航艇、回天、各種砲弾などの実物が展示されています。

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この後、展示は2F、3Fと続いていくのですが、大和や海軍のこととは関係がなくなっていくので割愛させていただきますw

ミュージアムを出た私はその足で、歴史の見える丘公園へ。


ここは、海と山の両方に囲まれた呉市の山の中腹あたりにありミュージアムからは歩いて約20分程でつきます。

呉港が一望でき、現在は石川島播磨重工となっている呉海軍工廠の跡地も見渡すことが出来ます。
ここには当時、戦艦大和が実際に建造されたドックが残っており、ドックには大きく「大和のふるさと」と書かれていました。

当時、ここで実際に大和が造られていたのだな。と思うと非常に感慨深いものを感じました。

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この他にも何ヶ所か海軍に関する遺跡を回ったのですが、長くなりますので省略しますw

そして、今回の最大の目的地である呉海軍墓地へと向かいます。

ここには呉海軍工廠で建造されて戦没した艦艇の合葬碑が89基、個人碑が157基等、かなり大きな墓地となっており、戦前は海軍が、現在は呉市が管理しているそうです。

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大和が沈没したのは14時23分、その時間に合わせお参りさせて貰おうと到着すると何名かの方々がすでに大和の慰霊碑でお参りされていました。


私もまずは、用意してきた花束を慰霊碑にお捧げしてご挨拶をさせていただきました。

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日本と日本民族が存亡するかしないかという未曽有の危機に、その身をなげうって日本を守ってくださった先人達の勇気と行動に思いを致し、14時23分に

「亡くなられた方々のみ魂が安らかでありますように。また、皆さんの思いを少しでも受け継いで、この日本という国を守っていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。」

と祈らせていただきました。

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その後、やはり同じように14時23分にかなり熱心にお参りをされていた男性の方に声を掛けられました。

その方は呉市内に住んでいらっしゃる舌崎さんと仰る方で父上が18歳で大和に乗艦し沖縄への水上特攻作戦に参加され、生還さた方だとお話を伺いました。

私のことを、「遺族の方にしては随分と年の若い方がお参りされているな。」
と不思議に思い声を掛けてこられたそうです。


その舌崎さんは、実際にお父様から聞いた、戦闘時や沈没の体験よりも戦後、お父様が自分だけが生き残ったことで随分と気を落とされ、元気な状態に戻るまでに大分、時間を要したことなど、お話下り、やはり実際の戦争の悲惨さは映像をみたり話を聞くだけではわからないものだ。と改めて実感しました。


そして、「父が大和の戦闘でどんな体験をしたかは辺見じゅんさんの書いた「男たちの大和」の中に書かれているので読んでみて下さい。今日は話を聞いてもらって有難う。また、機会があればどこかで会いましょう。」
と名刺をいただき、握手をして別れました。
(東京に帰ってから持っている男たちの大和を読み返してみると家族との最後のお別れの話、沈没して海を漂流した時の話が載っていました。)


また、舌崎さんのお話によると以前、4月7日にはもっと盛大に慰霊祭が行われていたようですが、遺族の方の高齢化により、大和会も解散し世話役だった生還者の方も数年前に亡くなられたそうで、現在は心ある方がお参りをされにくるのみの状態だそうです。


形式も重要ですが、あの激動の昭和という時代を生きた先人達が、どんな思いで我々、未来の日本人にこの日本を託してくれたのか?


その思いを少しでも理解し継承していくことが出来たら。とそんな気持ちになりながら東京への帰路へとつきました。

来年もまた来ます。


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2009年04月07日

戦艦大和並びに第2艦隊の亡くなられた英霊を追悼し魂の平安なることをお祈り致します。

image/2009-04-07T16:17:491

本日4月7日は64年前、天一号作戦(菊水作戦)において出撃した連合艦隊第2艦隊、戦艦大和と護衛の9隻の艦からなる水上特攻部隊と、アメリカ海軍の空母艦載機との戦闘による坊ノ岬沖海戦(ぼうのみさきおきかいせん)にて戦艦大和が撃沈された日です。
戦死者は伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将) 有賀幸作艦長(同中将)以下2,740名、生存者269名[1]または276名[2]
[1]『戦史叢書』「沖縄方面海軍作戦」による。
[2]『大和ミュージアム常設展示図録』による。
ここにこの戦いにおいて亡くなられた英霊を追悼し安らかならんことを祈ります。

image/2009-04-07T16:20:061

参加兵力
日本海軍
日本軍では、作戦のために第2艦隊からなる第1遊撃部隊が編成され、水上特攻を担当する部隊となった。出撃した部隊は以下の編制であった。参加兵力は計4,329名。平均年齢は27歳であったという。
第1遊撃部隊
(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)
第1戦隊
戦艦大和
(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐、砲術長:黒田吉郎中佐)
:沈没。
被雷8本以上、直撃弾10発以上。戦死2,740、戦傷117名。
第2水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将)
軽巡洋艦矢矧(艦長:原為一大佐)
:沈没。
被雷7本、直撃弾12発。戦死446、戦傷133名。
※矢矧に座乗していた第2水雷戦隊司令官古村啓蔵少将、矢矧艦長原為一大佐は、ともに生還。
第41駆逐隊(司令:吉田正義大佐)
冬月(艦長:山名寛雄中佐)
:帰還。
中破。直撃弾2発(不発)。戦死12、戦傷12名。
涼月(艦長:平山敏夫中佐)
:帰還。
大破、艦首部に直撃弾を受け大破。後進で佐世保に帰還。戦死57、戦傷34名。
第17駆逐隊(司令:新谷喜一大佐)
磯風(艦長:前田実穂中佐)
:至近弾により機関室浸水。
航行不能になり処分。戦死20、戦傷54名。
浜風(艦長:前川万衛中佐)
:沈没。
被雷1本、直撃弾1発。被弾で航行不能になった後、被雷し轟沈。戦死100、戦傷45名。
雪風(艦長:寺内正道中佐)
:帰還。
至近弾のみ。損傷無し。戦死3、戦傷15名。
第21駆逐隊(司令:小滝久雄大佐)
朝霜(艦長:杉原与四郎中佐)
:機関故障を起こし艦隊より落伍、正午過ぎに敵機と交戦中との無電を発信後連絡が途絶える。撃沈されたものと推定。
隊司令及び艦長以下326名全員戦死。
初霜(艦長:酒匂雅三少佐)
:帰還。
至近弾のみ。損傷無し。戦傷2名のみ。
霞(艦長:松本正平少佐)
:直撃弾2発。
うち1発が機関室直撃、破壊。航行不能により処分。
戦死17、戦傷47名。
対潜掃討隊
(瀬戸内海離脱後、命令により反転帰還)
第31戦隊(司令官:鶴岡信道少将)
花月(艦長:東日出夫中佐)
榧(艦長:岩淵悟郎少佐)
槇(艦長:石塚栄少佐)

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アメリカ海軍
第58機動部隊
(司令官:マーク・ミッチャー中将)
空母9隻
(エンタープライズ ホーネット、ベニントン、ベローウッド、サンジャシント、エセックス、バンカーヒル、ハンコック、バターン、イントレピッド、ヨークタウン、ラングレイ)
戦艦6隻
(マサチューセッツ、インディアナ、ニュージャージー、サウスダコタ、ウィスコンシン、ミズーリ)
その他の支援艦艇
(大型巡洋艦アラスカ、グアムと多数の駆逐艦)
攻撃参加空母艦載機 386機

時系列
4月5日 13:59 第1遊撃部隊に出撃準備下令。
4月6日 15:20 第1遊撃部隊が徳山沖を出撃。
19:45 第1警戒航行序列(対潜序列)。
20:20 磯風が敵潜水艦らしきものを発見。
           第二艦隊米潜に発見される。
4月7日 06:00 第3警戒航行序列(対空序列)を取る。
06:30 大和が唯一搭載していた零式水上偵察機を本土に帰還させる。
06:57 朝霜(第21駆逐隊司令座乗)が機関故障のため随伴不能となり艦隊より離脱。
06:30頃-10:00頃 第5航空艦隊所属の零戦部隊による艦隊上空直衛が交代で実施される。この間、奄美諸島近海に展開していたアメリカ海軍第58機動部隊から、作戦機約400機からなる攻撃隊が、第1次攻撃隊と第2次攻撃隊とに分かれて、相次いで出撃する。
10:00頃 第1遊撃部隊が米軍の飛行艇2機に発見される。その後、艦隊は、米高速空母機動部隊から攻撃隊に先駆けて出撃したF6F戦闘機、F4U戦闘機計10数機の接触を受けながら、偽装航路を中止し、沖縄に向けて南下する。
11:35頃 大和に搭載された対空電探が、約100キロの距離にいる米軍艦上機の大編隊の接近を探知する。
12:10   落伍した朝霜より「ワレ敵機ト交戦中」との無電が入る。
12:15   大和以下の各艦が総員対空戦闘配置を完了する。
12:21   朝霜より「九十度方向ヨリ敵機三十数機ヲ探知ス」との無電連絡が入る。この後同艦は消息を絶った。
         朝霜は、この直後に沈没したと推定される(単艦戦闘で生存者がいないため最期の戦闘の詳細は不明)。
12:30頃 敵攻撃隊の大編隊が雲間から降下し、第1遊撃部隊上空へ殺到し始める。第一次空襲始まる。
12:35頃 大和以下の各艦が対空戦闘開始。
12:47  浜風轟沈。この頃、大和後部に初弾命中。電探室および主計課壊滅。矢矧航行不能
13:00  第一次空襲終了。
13:22  敵機群第二波約50機来襲。

13:33  第二次空襲始まる。
大和左舷に魚雷3本命中。
大和の副舵が取舵のまま故障(後に舵中央で固定)。
13:56  磯風、航行不能
14:05  矢矧沈没。
14:20  大和、左舷に傾斜20度、総員最上甲板が命ぜられる。

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伊藤長官が長官室に向かう。
14:23 大和沈没(左舷側へ大傾斜、転覆ののち、前後主砲の弾火薬庫の誘爆による大爆発を起こして爆沈)。

14:23  伊藤中将戦死により第1遊撃部隊指揮権を先任指揮官の古村少将が承継。
14:25  アメリカ軍の攻撃が終了。
16:39  作戦中止が下命される。
16:57  霞沈没(砲雷撃により処分)。
17:42  初霜が第2水雷戦隊司令官を救助。
22:40 磯風を雪風の砲雷撃により処分。
4月8日 冬月、雪風、初霜及び涼月が佐世保軍港に帰投。
現在の大和は、北緯30度43分、東経128度04分 長崎県男女群島女島南方176キロ 水深345mの地点に眠っている。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参考

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「進歩のない者は決して勝たない。
負けて目覚めることが最上の道だ。
日本は進歩というものを軽んじすぎた。
私的な潔癖や徳義にこだわって真の進歩を忘れていた。
敗れて目覚める。
それ以外にどうして日本は救われるか。
今目覚めぜずしていつ救われるか。
俺たちはその先導になるのだ。
日本の新生にさきがけて散る。
まさに本望じゃないか。」


沖縄への出撃前夜、自分たちの出撃にどんな意味があるのか口論になった士官たちに臼淵巌大尉が言った言葉です。


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彼等は生還の見込みのない自分達の出撃に「きっと後に残った者達が日本の復興を担ってくれる」と希望を託して行ったのだと思います。

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折しも北朝鮮のミサイル発射騒動で日本国民が今一度、国防について認識を改めて考え直さないならない時期に来ています。

臼淵大尉の言葉にあるように目覚めて本当の意味で進歩をしていくことが英霊達に応えていくことではないか。
と思えてなりません。

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2009年01月23日

大和引き揚げで準備委発足=数年内の実現目指す−広島・呉

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(昭和20年4月6日 沖縄に向けて水上特攻に出撃する前日 米軍機が上空より捉えた大和。補給艦より燃料補給を受けている。)

戦艦大和が建造された広島県呉市で22日、地元商工会議所などが中心となり「戦艦大和引き揚げ準備委員会」の初会合が開催された。数年以内の引き揚げを目指したいとしている。
 会合には、委員長を務める奥原征一郎呉商工会議所会頭ら5人が顔をそろえた。正式な実行委員会は、大和沈没の日に合わせて4月7日に組織する予定。奥原会頭は「(実行委メンバーは)全国的にも著名な方にお願いしたい」と話している。
 課題は資金の確保で、準備委は可能なら船体全体の引き揚げを目指すとしているが、その場合、数百億円が必要。現実的な数字として数十億円を想定し、個人を中心に全国から募金を集める考えだ。
ーーー時事通信より引用ーーー


「アニメじゃない! ほんとのことさ。」のgaiagearさんより大和引き揚げについての情報をいただきました。

大和引き揚げ計画の報道の一報があった後にJ-CASTの取材で引き揚げ計画が実はないものという報道もされたのですが、実行委員会が大和の沈没した4月7日に合わせて立ち上げられることになったようです。

単純な一大和ファンのボクとしては例え沈没していたものであっても実物の大和にお目にかかれると聞くとかなり嬉しい気分なのですが、実際にはあの全く勝機のない水上特攻作戦で3056名もの方が大和と共に東シナ海の海底に命を散らした訳です。

…ご遺族の方のお気持ちを考えると少々、複雑な気もします。

ですがここは、大和と共に東シナ海にいる乗組員達を祖国に還すための計画と前向きに捉えて(?)引き揚げ計画を応援したいと思います。
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(沖縄への水上特攻作戦の途中で米軍機より攻撃を受ける大和。)


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posted by 豪 at 19:40| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 海軍・戦艦大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月09日

敵兵を救出した日本の武士道精神

【第二次世界大戦中の日英海軍によるインドネシア沖海戦で、漂流中の英兵422人を】
危険を顧みずに救助した旧日本軍の駆逐艦「雷(いかずち)」の故工藤俊作艦長をしのぶ
墓前祭(実行委員長・平沼赳夫衆院議員)が7日、埼玉県川口市の薬林寺で開かれた。
秘話を最初公表した元英海軍士官サミュエル・フォール氏(89)も出席し、
「あの日は人生でもっとも印象的な1日の1つ。(墓前に)感謝の念を伝えた」と語った。
墓前祭には旧日本海軍関係者や自衛官、英国側関係者ら約100人が出席し、
遺影の前で焼香して偉業に思いをはせた。墓前への献花では、高齢のため車イスを使う
フォール氏が「座ったままでは失礼」と立ち上がって敬意を表し、戦時に工藤艦長が
示した武士道に英国の騎士道で返礼した。
実行委員長代理の藤井孝男参院議員は「不幸な戦争の中でも相手を互いに敬う気持ちを忘れなかった史実を後世に残したい」と語った。8日には都内のホテルで顕彰式が開かれる。
ーーー 産経ニュースより引用 ーーー


【大戦中に英兵救助 旧海軍艦長を顕彰】
 第二次世界大戦中の日英海軍によるインドネシア・スラバヤ沖海戦で、漂流中の英兵422人を危険を顧みずに救助した旧日本軍の駆逐艦「雷(いかずち)」の故工藤俊作艦長をたたえる顕彰式典(実行委員長・平沼赳夫衆院議員)が8日、都内のホテルで開かれた。
約350人が出席するなか、工藤艦長の親族に顕彰状や盾が授与され、工藤艦長の偉業と大戦で命を落とした多くの兵士に思いをはせた。
 式典には救出秘話を最初に公表した元英海軍士官で、駐スウェーデン大使も務めたサミュエル・フォール氏(89)も出席。
高齢のフォール氏に代わってあいさつした親族は「人生を通じて(フォール氏は)勇敢だったが、それは工藤艦長の示した行動を規範とし、仰ぎ見てきたからだ」と述べると、フォール氏も深くうなずいた。
 また、雷の航海長だった谷川清澄さん(92)が「生前の工藤さんはほとんどこの話をしなかった。
われわれは、当たり前のことをしただけだと思っている」と述べると、会場は万雷の拍手で包まれた。
元イギリス海軍士官からのものだった。戦後はスウェーデン大使を務めサーの称号が与えられたサムエル・フォール卿(投稿当時86歳)だった。フォール卿は、大戦中のスラバヤ沖海戦で、日本海軍に撃沈された巡洋艦から海に放り出され漂流中のところを日本海軍「雷(いかづち)」に救助されたのだった。このときの体験をタイムズ紙に投稿し、敵兵救助を決断した日本の武士道を賛美し、その国の元首を温かく迎えようと国民に呼びかけたのだった。
ーーー産経ニュースより引用ーーー



先日も大東亜戦争に関するエントリーをさせていただきましたが、本日も。


毎回、言っていますが日本では先の大東亜戦争を侵略戦争とし先人達の行為を断絶することが横行しています。


この「駆逐艦 雷」の工藤艦長の行為は激しい戦闘の最中、敵兵に対し、危険を省みず救出を決断した日本海軍の武士道精神をよく表した逸話だと思います。


村山談話を始めとする捏造された歴史観や、旧日本軍の行為を残虐と断絶することばかりを継承するのではなく、連綿と受け継がれて来た武士道精神を先人達から継承していくことが大切だと思います。



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posted by 豪 at 13:10| 東京 ☀| Comment(4) | TrackBack(3) | 海軍・戦艦大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月23日

戦艦大和 浮上ス!

今、柄にもなくかなり興奮していますw
先程、「行雲流水の如し」のにっきんさんからいただいた情報によると、なんと!
あの戦艦大和の引き揚げ計画が進行しているという!

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「大和引き揚げ計画が呉で浮上

2008年10月22日(水)17:00
(中国新聞)
東シナ海に沈む戦艦「大和」の主砲などを引き揚げる計画が、呉市の経済界などで浮上している。呉商工会議所を中心に来春にも、引き揚げに向けた準備委員会を設立する見通しになった。

 呉商議所などの計画では、引き揚げるのは海底約340メートルに沈んでいる主砲と船体前部の一部など。試算では費用が50億―100億円程度になるという。準備委は、呉商議所の奥原征一郎会頭や大和ミュージアム(呉市)の戸高一成館長ら10人程度で構成する見込み。今後、大和乗組員の遺族らに理解を求めながら準備する。

 引き揚げ方法などの検討はこれからで、2―3年かけて全国から寄付金を募り、資金を賄う考え。実際に引き揚げ作業に入るのは約5年後になる見通しという。展示場所として主砲などは、大和ミュージアム敷地内の「大和波止場」に置くことなどが検討されている。」
ーーーーーーーーー
これはすごい!
ボクもいつかは、実現してほしいと願っていたことですが、記事にもあるように沈没位置が水深350メートルもあり、その地点より引き揚げを行うには何十億という資金が必要でまず実現不可能と言われていた大和の引き揚げ計画を実現に向けスタートを切ってくれた大和ミュージアムの戸高一成館長ら有志の皆さんにホントに感謝です。

当時の日本の技術の結晶、世界最大最強と謳われた戦艦大和。
その大和の46センチ主砲搭が実際に目にする事が出来るなんて考えただけで目眩がしますw

早期実現に向け何かできることがあれば力になりたいと思います。

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2008年05月29日

5月27日は海軍の日

横須賀市の記念艦三笠で行われた日本海海戦103周年記念式典に参加して来ました。【日本海海戦(にほんかいかいせん, 1905年5月27日 - 5月28日)とは、日露戦争中に日本とロシア帝国との間で戦われた海戦である。日本海軍の連合艦隊とロシア海軍の第2及び第3太平洋艦隊(日本では「バルチック艦隊」の呼び名が定着している)との間で行われた。日本艦隊の司令官東郷平八郎が採用した丁字戦法などにより、ロシア艦隊は戦力の大半を失い壊滅した。日本側の損失は軽微で、海戦史上まれな一方的勝利となった。当時後進国と見られていた日本の勝利は世界を驚かせ、ポーツマス講和会議への道を開いた。】
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当時の国際情勢などはここに書き記すと長くなりますので割愛しますが、南下してくるロシアの脅威に対して文明後進国と見なされていた日本が戦いを挑み、初めて白人に東洋人が勝ち日本が米英に続いて世界3大海軍の仲間入りした海戦です。

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これを記念して開戦の行われた5月27日を海軍の日として毎年記念式典が行われています。会場となった記念艦三笠は連合艦隊旗艦として海戦に参加した戦艦です。

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東郷平八郎連合艦隊司令長官の「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」はあまりにも有名ですよね。

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ようは「負けたら後がない。」ということです。

日本政府の特定アジア3国に対する対応(最近で言うと竹島問題での韓国に対する及び腰な態度等)を見ているとこの気概を早く取り戻して行かないと国益を損なうばかりでは?
そんな気がしてなりません。



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2008年04月07日

桜の咲き誇るあの日2

「進歩のない者は決して勝たない。
負けて目覚めることが最上の道だ。
日本は進歩というものを軽んじすぎた。
私的な潔癖や徳義にこだわって真の進歩を忘れていた。
敗れて目覚める。
それ以外にどうして日本は救われるか。
今目覚めぜずしていつ救われるか。
俺たちはその先導になるのだ。
日本の新生にさきがけて散る。
まさに本望じゃないか。」
沖縄への出撃前夜、自分たちの出撃にどんな意味があるのか口論になった士官たちに臼淵巌大尉が言った言葉です。
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そうです。彼らは生還の見込みのない自分たちの出撃に、自分たちは散っても後に続く者がきっと、日本の復興を担ってくれる。きっと目覚めてくれる。そう信じて旅立っていったのだと思います。
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果たして今の日本はどうでしょうか?
彼らに胸を張って顔を合わせられる。そういう生き方をしているでしょうか?
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もう一度目覚めなければいけない。そう思いを新たにする。それがボクにとって4月7日なんです。
posted by 豪 at 01:07| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(1) | 海軍・戦艦大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月06日

桜の咲き誇るあの日

4月7日。ボクにとってはある意味、意義のある日を迎えます。ここ何年かは4月7日は呉に行くことがボクの定番だったのですが、今年は仕事の都合上やもなく呉に行くことができませんでしたので、変わりにといっては何ですが記事をエントリーしたいと思います。
広島県呉市の海軍工廠にて極秘裏に建造され、昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦の日に公試運転を終了し完成をみた世界最大最強の戦艦大和は日本海軍の象徴としてのみならず、すべての日本人にとって憧憬であり誇りでもあった。
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しかし、すでに戦争は大艦巨砲主義の時代を終えて飛行機の時代へと突入しており、結局大和はさしたる活躍の場を与えられることもなく、昭和20年4月7日沖縄に向けての水上特攻作戦の途上、米軍の猛攻によって東シナ海に沈められた。
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それでも大和という存在と概念は今もなお日本人の心の原点として輝き続けている。それは日本そのものを意味する大和という艦名やその響きが先の大戦における悲劇のシンボルとして人々の胸に静かに悲しく染み入るように訴えかけてくるからだろう。
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昭和20年4月、
桜の咲き誇る故郷を後に永遠の海へと旅立っていってた巨大戦艦大和。
艦には3332名の乗組員が搭乗していた。彼らはどんな思いで決戦に挑んだのだろう…。

posted by 豪 at 23:26| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 海軍・戦艦大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月20日

海軍遺跡の街 横須賀 その2 「戦艦大和」特別展

グラフィック0120.jpg   今日は横須賀市制100周年の記念行事として開かれている「戦艦大和」特別展のことを書いてみたいと思います。
呉市「大和ミュージアム」の主催による巡回展として横須賀の三笠公園、戦艦三笠の艦内で行われています。(期間はあと僅かで1/31(木)までのようです。)
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呉の大和ミュージアムに展示されているものが移動されて多数展示されており内容的には小規模な大和ミュージアムですwww。 他にも約40〜50分に渡る生存者や遺族のインタビュー映像やメイキングオブ1/10 戦艦大和では呉の1/10スケールの大和が完成するまでの映像が楽しめたりします。ただ、正直なことを言ってしまうとボクは呉の大和ミュージアムに2回ほど行っているからかもしれませんが、本場に比べると全体的にはやや物足りなさを感じてしまうというか…。まぁ、移動させる展示物も呉との兼ね合いもあるでしょうし、大型展示物(回天や零戦)は移動させられませんからねw 呉までは遠いしなかなか行けないから疑似体験だけでもしてみたいって人なら行ってみる価値はあるかもしれません…www
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posted by 豪 at 16:55| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 海軍・戦艦大和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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