2011年12月12日

世界に愛された日本〜教科書に載らない歴史?【世界に轟いた会津武士道】義和団事件と柴五郎

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本日は久しぶりに
「世界に愛された日本〜教科書に載らない歴史シリーズ」
をお送りしたいと思います。

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明治維新以降、欧米世界の中で最も早くその名を知られた日本人は誰かご存知だろうか。
白色人種至上主義が当然とされ、黄色人種というだけで差別されることが当然だという、恐るべき偏見が支配していた時代にあって、世界に名を轟かせた日本人がいたのだ。
実は、それは乃木希典大将でも、東郷平八郎元帥でもなかった。
義和団事件の際に活躍し、欧米社会に名を轟かせた日本人がいたのだ。
その名を柴五郎という。

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柴五郎

柴五郎は強運の人であると同時に悲劇の人でもあった。
会津の武士の家に生まれた柴は十歳の時に、戊辰戦争を迎えている。偶然、親戚の家に松茸狩りに出かけている最中に戦争は勃発した。この戦いで彼は自身の祖母、母、兄、姉、妹を亡くしている。兄は戦死であったが、他の女性は全て西軍の侵攻を前に自害して果てたのだ。
柴家の男達は戦い、女達は自害した。壮絶な会津武士道というべきだろう。

戊辰戦争後、敗北した会津藩士達は、極寒の地斗南(現在の青森県むつ市)に移住されられた。そこは豊かな故郷会津とは異なり、火山灰土の風雪厳しい不毛の土地であった。
柴五郎も斗南に移住し、、極貧生活を送っている。冬の厳しい寒さの中、満足な防寒対策も出来ず、僅かで粗末な食事だけで何とか生き延びたのだ。
当時の柴家の生活を調べてみると、よくぞ生き延びることが出来たと思わずにはいられないほどの経済状況、生活環境にあったといわざるえない。
こうした環境下で、柴五郎は、人々の暖かい支援の下、何とか東京へ出る。だが、東京に出たものの、食べていくことに必死という状況が続く。
彼に転機が訪れるのは、学費の必要のない陸軍幼年学校に入学した時である。

軍人としてトントン拍子で歩んだ柴の名が世界に知れ渡ることになるのは、義和団事件における彼の奮戦が凄まじかったからである。

■1.唐突な日英同盟締結の背景■

 ちょうど100年前の1902(明治35)年1月30日、日英同盟が成立した。同盟締結を推進したのは、駐日公使マグドナルドであった。マグドナルドは前年夏の賜暇休暇にロンドンに帰るとソールズベリー首相と何度も会見し、7月15日には日本公使館に林菫公使を訪ねて、日英同盟の構想を述べ、日本側の意向を打診した。マグドナルドは翌日も林公使を訪問して、イギリス側の熱意を示した。それからわずか半年後には異例のスピードで同盟締結の運びとなった。

 イギリスが日本と結んだのは、ロシアの極東進出を防ぐという点で利害が一致したからである。しかし、当時の超大国イギリスがその長年の伝統である「光栄ある孤立」政策をわずか半年で一大転換し、なおかつその相手がアジアの非白人小国・日本であるとは、いかにも思い切った決断である。その背景にはマグドナルド公使自身が一年前に経験した一大事件があった。

■2.義和団の地鳴り■
 1885(明治28)年、日清戦争に敗北して、清国が「眠れる獅子」ではなく「眠れる豚」であることを露呈するや否や、列強は飢えた狼のようにその肉に食らいついていった。三国干渉により日本に遼東半島を返還させると、それをロシアがとりあげ、同時にドイツは膠州湾と青島、フランスは広州湾をむしりとる。イギリスは日本が日清戦争後にまだ保障占領していた威海衛を受け取り、さらにフランスとの均衡のためと主張して香港島対岸の九龍をとった。

 こうした情況に民衆の不満は高まり、義和団と称する拳法の結社があらわれた。呪文を念じて拳を行えば、刀槍によっても傷つくことはない、と信じ、「扶清滅洋(清国を助け、西洋を滅ぼせ)」をスローガンとして、外国人やシナ人キリスト教徒を襲うようになっていった。

 1900(明治33)年5月28日、義和団の暴徒が北京南西8キロにある張辛店駅を襲って、火を放ち、電信設備を破壊した。
北京在住の列強外交団は、清国政府に暴徒鎮圧の要求を出す一方、天津の外港に停泊する列国の軍艦から、混成の海軍陸戦隊400名あまりを北京に呼び寄せた。日本も軍艦愛宕からの25名の将兵が参加した。今風に言えば多国籍軍である。

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義和団事件に出兵した連合軍の兵士達
左からイギリス・アメリカ・ロシア・インド・ドイツ・フランス・オーストラリア・イタリア・日本


 6月4日、北京−天津間の鉄道が、義和団によって破壊された。北京の外交団は万一の場合の脱出路を奪われた形となった。
すぐに2千の第2次混成部隊が出発したが、鉄道の修復時間がかかり、いつ北京にたどり着けるか、分からない状態だった。

■4.義和団の来襲■

 6月11日、日本公使館の杉山書記生が惨殺された。救援部隊が来ないかと北京城外に出て、戻ろうとした所を清国の警備部隊に捕まり、心臓を抉り抜かれ、その心臓は部隊長に献上された。外交団は治安維持の頼みとされていた清国官憲までも外国人襲撃に加わったことに衝撃を受けた。

 13日、公使館区域に4,5百人の義和団が襲いかかった。
おおぜいたむろしている清国官兵は、見て見ぬふりをしている。
しかし刀や槍を振り回す暴徒は、列国将兵の銃撃に撃退された。
14日、怒った暴徒は、公使館区域に隣接するシナ人キリスト教民の地域を襲った。凄まじい男たちの怒号と、女子どもの悲鳴が公使館区域まで聞こえてきた。一晩で惨殺された教民は千人を数えた。

 15日、タイムズの特派員G・モリソンはイギリス公使マグドナルドを説き、20名の英兵を率いて5百人余りの教民を救出してきた。しかし、それだけの人数を収容する場所がない。
困ったモリソンが、シナ事情に詳しそうな柴中佐に相談すると、柴は即座に公使館地域の中央北側にある5千坪もの粛親王府を提案した。粛親王は開明派で、日本の近代化政策を評価していた。柴が事情を話してかけあうと、教民収容を快諾した。

 この王府は小高くなっており、ここを奪われれば、公使館地域全体を見下ろす形で制圧されてしまう。この事に気づいていた柴は教民たちを動員して保塁を築き始めた。欧米人と違って、日本人の多くはシナ語を話せたため、彼らは日本兵によくなつき、熱心に協力した。また30名ほどの義勇兵も出て、日本軍と共に自衛に立ち上がった。

■6.清国軍も攻撃開始■

 6月19日、シナ政府から24時間以内に外国人全員の北京退去を命ずる通牒があった。抗議に赴いたドイツ大使は清国兵にいきなり銃撃され、即死した。

 20日午後からは、地域の警備についていた清国軍が公然と攻撃を始めた。暴徒とは異なり近代装備を持つ清国軍は大砲まで持ち出して、公使館区域を砲撃した。

 最初の2日間の戦いで区域の東北端に位置するオーストリーとベルギーの公使館が火を放たれて、焼かれた。西正面と北正面を受け持っていたイギリス兵は、イギリス公使館が西から攻撃を受けると、そちらに移動してしまった。

 北正面ががらあきとなり、清国軍が侵入するには絶好の隙間が生じてしまった。少数の日本将兵と教民たちがたてこもる北辺の粛親王府が破られれば、そこから清国軍は区域全体を見下ろし、砲撃することができる。清国軍は激しい攻撃を加えてきた。

 区域全体の総指揮官に推されたイギリス公使マグドナルドは、粛親王府の守備を固めるために、イタリア、フランス、オーストリー、ドイツの兵に柴中佐の指揮下に入るよう命じたが、兵達は土地は広く、建物は迷路のように錯綜する王府を見ると、「とてもじゃないが守りきれない」とそれぞれ自国の公使団保護に帰ってしまった。



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■7.日本兵の勇気と大胆さは驚くべ
きものだ■

 王府防衛の有様を柴中佐の指揮下に留まっていたイギリス人義勇兵の一人B・シンプソンは次のように日記に記した。

 数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢の日本軍は、王府の高い壁の守備にあたっていた。その壁はどこまでも延々とつづき、それを守るには少なくとも5百名の兵を必要とした。しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付き武官のリュウトナン・コロネル・シバ(柴中佐)である。・・・

 この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。
彼は部下たちを組織し、さらに大勢の教民たちを召集して、前線を強化していた。実のところ、彼はなすべきことをすべてやっていた。ぼくは、自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じる。

 この後、王府を守る柴中佐以下の奮戦は、8月13日に天津からの救援軍が北京に着くまで、2ヶ月余り続く。睡眠時間は3,4時間。大砲で壁に穴をあけて侵入してくる敵兵を撃退するという戦いが繰り返し行われた。総指揮官マグドナルド公使は、最激戦地で戦う柴への信頼を日ごとに増していった。イタリア大使館が焼け落ちた後のイタリア将兵27名や、イギリス人義勇兵を柴の指揮下につけるなど迅速的確な支援を行った。

 6月27日には、夜明けと共に王府に対する熾烈な一斉攻撃が行われた。多勢の清国兵は惜しみなく弾丸を撃ちかけてくる。
弾薬に乏しい籠城軍は、一発必中で応戦しなければならない。
午後3時頃、ついに大砲で壁に穴を明けて、敵兵が喊声を上げながら北の霊殿に突入してきた。
柴は敵兵が充満するのを待ってから、内壁にあけておいた銃眼から一斉射撃をした。敵は20余の死体を遺棄したまま、入ってきた穴から逃げていった。
この戦果は籠城者の間にたちまち知れ渡って、全軍の志気を大いに鼓舞した。

 イギリス公使館の書記生ランスロット・ジャイルズは、次のように記している。

 王府への攻撃があまりにも激しいので、夜明け前から援軍が送られた。王府で指揮をとっているのは、日本の柴中佐である。・・・

 日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では柴中佐が最優秀と見なされている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵がこれにつづく。しかし日本兵がずば抜けて一番だと思う。

■8.安藤大尉の奮戦■

 王府を守りながらも、柴中佐と日本の将兵は他の戦線でも頼りにされるようになっていった。
アメリカが守っている保塁が激しい砲撃を受けた時、応援にかけつけたドイツ、イギリス兵との間で、いっそ突撃して大砲を奪ってはどうか、という作戦が提案され、激しい議論になった。そこで柴中佐の意見を聞こうということになり、呼び出された柴が、成功の公算はあるが、今は我が方の犠牲を最小にすべき時と判断を下すと、もめていた軍議はすぐにまとまった。
 イギリス公使館の正面の壁に穴があけられ、数百の清国兵が乱入した時は、柴中佐は安藤大尉以下8名を救援に向かわせた。
最も広壮なイギリス公使館には各国の婦女子や負傷者が収容されていたのである。

 安藤大尉は、サーベルを振りかざして清国兵に斬りかかり、たちまち数名を切り伏せた。つづく日本兵も次々に敵兵を突き刺すと、清国兵は浮き足立ち、われさきにと壁の外に逃げ出した。館内の敵を一掃すると、今度はイギリス兵が出撃して、30余名の敵を倒した。安藤大尉らの奮戦は、イギリス公使館に避難していた人々の目の前で行われたため、日本兵の勇敢さは讃歎の的となり、のちのちまで一同の語りぐさとなった。

 後に体験者の日記を発掘して「北京籠城」という本をまとめ上げたピーター・フレミングは本の中でこう記述している。

 戦略上の最重要地点である王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。・・・ 日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もあったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。

 当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城をつうじてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになった。

 日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本人だけである。

■9.コロネル・シバ■

 救援の連合軍が、清国軍や義和団と戦いながら、ついに北京にたどりついたのは、8月13日
のことだった。総勢1万6千の半ばを日本から駆けつけた第5師団が占めていた。その他、ロシア3千、英米が各2千、フランス8百などである。籠城していた柴中佐以下は、ほとんど弾薬も尽きた状態だった。

 14日、西太后の一行は西安に向けて脱出した。その午後、北京入城後最初の列国指揮官会議が開かれた。冒頭マグドナルド公使が、籠城の経過について報告した。武器、食糧の窮迫、守兵の不足、将兵の勇敢さと不屈の意志、不眠不休の戦い、そして公使は最後にこう付け加えた。

 北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである。

柴中佐が日本軍将兵と日本人義勇兵にこの言葉を伝えると、嗚咽の声が漏れた。誰もが祖国の名誉を守り、欧米の人々からも認められた誇らしい感情を味わっていた。

 柴中佐はその後も日本軍占領地域では連合軍兵士による略奪を一切許さず、その治安の良さは市民の間のみならず、連合軍の間でも評判となった。

 柴中佐には欧米各国からも勲章授与が相継ぎ、またタイムズの記者モリソンの報道もあいまってコロネル・シバは欧米で広く知られる最初の日本人となった。その後、総指揮官を務めたマグドナルドは駐日大使に転じ、日英同盟の締結を強力に押し進めていくことになる。柴中佐と日本将兵の見せた奮戦ぶりから、日本こそは大英帝国が頼みにするに足る国と確信したのであろう。


もちろん、同盟締結に至るには、複雑な世界情勢判断が最優先されたであろうことは間違いないし、外交を人情話に喩えるつもりもない。
ただし、柴五郎という堂々たる日本人がいたという事実の重みが、白色人種至上主義の時代の外交における人種偏見を打破する契機となったこともまた、事実なのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

当時のイギリスと言えば、世界の面積の4分の1を植民地とする大英帝国として君臨する大国であり、遅れて世界の舞台に踊り出たアジアの小国、日本と同盟を締結するなど常識では考えられない稀有な出来事だったのです。

そして、この日英同盟があったからこそ、後の日露戦争の際に、日本は欧米諸国からの支援を受け、ロシアに勝利し世界列強の仲間入りを果たすことが出来た訳です。

言わば、会津武士道の体現者であった柴五郎の存在が、日本という国が列強国の植民地化することを防ぎ、世界の中の大国として生き残っていく為の、大きな役割を果たしている訳です。

日本という国土に生まれ育った純粋な日本人が、例えば、皇室、天皇家と聞くと自然と尊く敬しい存在として感じ取る、日本人としてのDNAを受け継いでいくように、それぞれの地方においても、その土地の風土や精神性というものは受け継がれていくものと思います。

柴五郎という、その名を世界に轟かせた会津武士道を受け継ぐ福島の皆さんなら、原発と放射能のフクシマから、元の美しい福島へ必ず、復興を成し遂げることでしょう。
福島は必ず復活する
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2010年07月24日

世界に愛された日本〜教科書に載らない歴史G 【6千人の命のビザ 杉原千畝】

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杉原千畝(ちうね)

1900年1月1日 岐阜県加茂郡八百津町に父好水、母やつの次男として生まれる。

1919年  早稲田大学高等師範部英語科中退、外務省留学生としてハルピンでロシア語を学ぶ。

1924年 外務省に奉職。満州、フィンランド、リトアニア、ドイツ、チェコ、東プロセイン、ルーマニアの日本領事館に勤務。
1940年夏、リトアニア共和国首都カウナスの日本領事館領事代理時代に、ナチスドイツの迫害をのがれようとするユダヤ人にビザを発給し、約6000人の尊い人命を救う。

1947年 帰国。外務省を退職。東京PX、米国APONJE商会、ニコライ学院教授、NHK国際局、国際交易(株)等に勤務。1985年1月イスラエル政府より「ヤド・バシェム賞」(諸国民の中の正義の人賞)を受賞

1986年7月31日 逝去(86歳)

■1.押し寄せたユダヤ人群衆 ■

 1940年(昭和15年)7月27日朝、バルト海沿岸の小国リトアニアの日本領事館に勤務していた杉原千畝(ちうね)領事は、いつもとは違って、外がやけに騒がしいのに気がついた。窓の外を見ると、建物の回りをびっしりと黒い人の群れが埋め尽くしている。

 ボーイのバリスラフは、すでに群衆に会って、その理由を尋ねてきていた。ポーランドからナチスの手を逃れてここまで歩いてやってきたユダヤ人達で、これから日本経由でアメリカやイスラエルに逃げようとして、通過ビザを求めている、今は200人ほどだが、数日中に何千人にも増えるだろう、と言う。

 前年9月、ナチス・ドイツとソ連の密約により、両軍がポーランドに同時に攻め込み、東西に二分割していた。そのドイツ軍占領地から、ユダヤ人狩りを逃れて、三々五々、このバルト海に面したリトアニアまで避難してきた人々であった。すでにオランダもフランスもドイツに破れ、ナチスから逃れる道は、シベリア−日本経由の道しか残されていなかった。
ビザを待つ人群に父親の手を握る幼な子はいたく顔汚れをり(幸子夫人、以下同じ)

■2.杉原領事の苦悩と決断 ■

 これほど多くの人々にビザを出すことは、領事の権限ではできない事だった。外務省に暗号電報で許可を求めたが、回答は「否」。
日独伊三国同盟を目指す方針の下で、ドイツに敵対するような行為は認められなかった。
 しかし、ビザを出さなければ、外のユダヤ人達の命はない。杉原領事はあきらめずに二度、三度と電報を打つ。8月3日には、ソ連がドイツとの密約通り、リトアニアを正式に併合し、日本領事館にも8月中の退去命令を出した。日本の外務省からも、「早く撤収せよ」との指示が来る。

ビザ交付の決断に迷い眠れざる夫のベッドの軋むを聞けり ついに意を決して、杉原は夫人に言った。

「幸子、私は外務省に背いて、領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」 「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけれど、そうしてください。」
私の心も夫とひとつでした。大勢の命が私たちにかかっているのですから。
 夫は外務省を辞めさせられることも覚悟していました。「いざとなれば、ロシア語で食べていくぐらいはできるだろう」とつぶやくように言った夫の言葉には、やはりぬぐい切れない不安が感じられました。
 「大丈夫だよ。ナチスに問題にされるとしても、家族にまでは手は出さない」
 それだけの覚悟がなければ、できないことでした。

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ビザ発給を待つユダヤ人達

■3.書き続けたビザ ■

 夫が表に出て、鉄柵越しに「ビザを発行する」と告げた時、人々の表情には電気が走ったようでした。一瞬の沈黙と、その後のどよめき。抱き合ってキスし合う姿、天に向かって手を広げ感謝の祈りを捧げる人、子供を抱き上げて喜びを押さえきれない母親。窓から見ている私にも、その喜びが伝わってきました。

 それから約1ヶ月間、退去期限ぎりぎりまで、杉原は朝から晩まで一日300枚を目標にビザを書き続けた。すべてを手書きで一人一人の名前を間違えないように書く。
途中で万年筆も折れ、ペンにインクをつけて書く。効率を上げるために、番号付けや手数料徴収もやめた。一日が終わると、ベッドに倒れ込み、夫人が腕をマッサージしていると数分で眠り込む。
 外には大勢のユダヤ人が順番を待って朝から晩まで立っている。
やっと順番が巡ってきて、ひざまづいて杉原の足もとにキスをする女性もいた。夜はもう寒いのに、近くの公園で野宿して順番を待つ人もいる。

 ソ連から退去命令が何度も来て、杉原はついに8月28日に領事館を閉鎖して、ホテルに移った。領事館に張り紙をしておいたので、ここにもユダヤ人がやってきた。ありあわせの紙でビザを書き続ける。

■4.バンザイ、ニッポン ■

 9月1日の早朝、退去期限が過ぎて、ベルリン行きの国際列車に乗り込んだ。ここにもビザを求めて何人かの人が来ていた。窓から身を乗り出して杉原はビザを書き続けた。ついに汽車が走り出す。
走り出づる列車の窓に縋りくる手に渡さるる命のビザは
「許してください、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています。」
 夫は苦しそうに言うと、ホームに立つユダヤ人たちに深ぶかと頭を下げました。茫然と立ち尽くす人々の顔が、目に焼き付いています。
「バンザイ、ニッポン」
 誰かが叫びました。夫はビザを渡す時、一人一人に「バンザイ、ニッポン」と叫ばせていました。外交官だった夫は、祖国日本を愛していました。夫への感謝が祖国日本への感謝につながってくれる事を期待していたのでしょう。
 「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」
列車と並んで泣きながら走ってきた人が、私たちの姿が見えなくなるまで何度も叫び続けていました。

■5.日本へ ■

 ビザを受け取ったユダヤ人達は、数百人毎の集団となって、身動きができないほど詰め込まれた列車で、数週間をかけて、シベリアを横断した。ウラジオストックの日本総領事は、杉原をよく知っていて、杉原の発行した正式なビザを持つ人を通さないと海外に対する信用を失うことになると外務省を説得した。

 日本郵船のハルピン丸が、ウラジオストックと敦賀の間を週一回往復してユダヤ人達を運んだ。船は小さく、日本海の荒波で激しく揺れ、ユダヤ人達は雑魚寝の状態で船酔いと寒さに耐えながら日本に向かった。それでもソ連の領海を出た時は、ユダヤ人の間で歌声が起こった。シベリア鉄道では歌を歌うことさえ許されなかったのだ。

 昭和15年10月6日から、翌16年6月までの10ヶ月間で、1万5千人のユダヤ人がハルピン丸で日本に渡ったと記録されている。敦賀から神戸に向かい、神戸のユダヤ人協会、キリスト教団、赤十字などの援助を受けた。「日本人はやさしかった」と、あるユダヤ人は後に杉原夫人に語っている。
神戸と横浜からユダヤ人達はイスラエルやアメリカに渡っていった。

■6.28年間探しつづけた ■

 敗戦後、日本に戻った杉原は、外務省を退職させられた。占領軍総司令部から各省の職員を減らすようにという命令が出ていたのだが、「やはり命令に背いてビザを出した事が問題にされているのか」とも思った。
杉原は黙って外務省を去った。

 その杉原にイスラエル大使館から電話があったのは、昭和43年8月の事だった。杉原に救われた一人、ニシュリという人が参事官として在日大使館に勤務していた。ユダヤ人達は28年間も杉原を探していて、ようやく見つけたのであった。

 ニシュリは、杉原に会うと、一枚のぼろぼろになった紙を見せた。
杉原からもらったビザである。そして杉原の手をかたく握って、涙を流した。

■7.私たちはあなたを忘れません 


 翌昭和44年、杉原は招待されてイスラエルを訪問した。出迎えたのはバルハフティック宗教大臣。領事館でユダヤ人代表として杉原に交渉した人物である。

 バルハフティック大臣は、杉原をエルサレム郊外にあるヤド・バシェムという記念館に案内した。ホロ・コーストの犠牲者を追悼するとともに、ユダヤ人を救った外国人を讃えるための記念館である。
杉原はそこに記念樹を植え、勲章を受け取った。その記念館には「記憶せよ、忘るるなかれ」という言葉が刻まれている 昭和60年1月、杉原はイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」を授けられた。日本人としては初めての受賞である。すでに病床にあった杉原の代わりに、夫人と長男がイスラエル大使館での授賞式に参加した。杉原は病床のまま、翌昭和61年7月31日
に亡くなった。

■ナチスのユダヤ人排斥要求を拒否した日本政府
 大戦中、6000人のユダヤ人を救った日本人外交官・杉原千畝氏、その行為は本国の意向に背いたかのように言われておりましたが、それは氏の単独の行動ではなく、「極端なユダヤ人排撃はできない」とする政府の秘密決定を根拠にしたものと考えられる。

 この決定は、当時ナチスドイツから度重なるユダヤ人排斥要求を受けていた日本政府が、「人種平等」という国是にもとるとして、下していたもの。日独研究者による外交文書調査で明らかになった。

 たとえば、当時日本海軍管轄下にあった上海では、2万7千人を超すユダヤ人難民が滞在していたが、これは当時の世界で唯一、ビザなしの渡航者を受け入れていたからである。

 また39年には、ドイツ外相が、シベリア経由で満洲に流れ込んでいるユダヤ人難民の越境を許可した日本の関東軍司令部を公式に非難している。[産経、H10.03.30]



自分と自分の家族の生活の事を省みず、リトアニアを立つ列車が発車する直前まで、ビザを書き続けた杉原千畝氏。

ナチスやロシアの圧力の中で、ビザを書き続けることは至難の技だったことと思います。
当時の日本が五族共栄を唱え満州国を建設し、人種差別撤廃を掲げて大東亜戦争に突入していった、杉原千畝氏もそうした当時の日本人としての気質をシッカリと心で育んだ人物だったことが伺えると思います。

こうして、人種差別撤廃を目指し、人権を尊重した先人が他国から高い評価を受けているという事実を今の日本の政治家達はどう感じているのでしょうか?

歴史の真実というものは、政治的に利用されねじ曲げられるようなことがあってはなりません。
ましてや、してもいない悪事を簡単に認め、謝罪や賠償をするなど、先人たちの血の滲むような努力の上に今の日本が成り立っていることを踏みにじる行為です。
私達は連綿と続いて来た、日本人としての良い気質を受け継いで、日本に仇なす政治家を排除していかなければなりません。

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2010年01月21日

世界に愛された日本〜教科書に載らない歴史F【台湾で神様になった日本人その2 廣枝音右衛門】

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今日は久々に、世界に愛された日本〜教科書に載らない歴史シリーズをアップしたいと思いますw
本文はブログ「ねずきちのひとりごと」
より引用です。

image/2010-01-20T23:11:081

廣枝音右衛門警部

売国左翼や反日主義者、朝鮮半島などでは、日本人の警察官というものは、まるで悪の権化のように思っているかのようです。
ところが台湾にいきますと、いまでも高砂族のあいだで、警察といえば守り神のように慕われています。
戦前の台湾の警官といえばエリート中のエリートだったのです。
警官になるのは、現在の東大に合格するよりむずかしいことでした。
台湾の警察官は、それだけ名誉ある職業であり、人々から尊敬される職業だったのです。
その台湾で、神として祀られている警察官がいます。
その警官の名前は、廣枝音右衛門(広枝音右衛門)といいます。
音右衛門は、明治38年の生まれで、神奈川県小田原市で生まれた方です。
逗子の開成中学、日本大学予科と進み、昭和3年、23歳のとき、佐倉歩兵第57連隊に入隊し9、軍曹となりました。
任期満了で除隊したあと、湯河原の小学校教員などをしていたのですが、昭和5年、台湾にわたり競争率100倍という超難関の台湾総督府の巡査となりました。
そして台湾・新竹州の巡査として勤務した。
この時代、台湾の察官は、治安活動だけでなく、台湾の人々を内地の日本人と同等の教育、文化水準に引き上げるという、行政上の役割も担っていました。
昭和17年5月、音右衛門は、警部に昇進し、新竹州竹南の郡政主任として勤務します。
そしてここで、大東亜戦争の戦線拡大にともなって台湾で結成された総勢二千名におよぶ海軍巡査隊・総指揮官を拝命します。
海軍巡査隊は、昭和18年12月8日、高雄港から特務艦「武昌丸」に乗り込んで、フィリピンのマニラに向かいました。
マニラでは厳しい訓練の日々が続きます。
音右衛門は、隊長として、常に部下の先頭に立厳しい訓練を率先して受け、部下たちひとりひとりを励まし続けました。
そんな廣枝隊長を部下たちは、とても慕った。
巡査隊の任務は、物資の運搬、補給などの後方支援です。
戦況は刻々と悪化し、ついに昭和20年2月、マニラ市近郊に米軍が上陸してきます。
米軍と戦闘すること3週間、ついに弾薬も尽き、玉砕やむなしの情況となります。
海軍巡査隊にも、フィリピン派遣軍司令部から棒地雷が支給され、
「これで敵戦車に体当たりし、全員玉砕せよ」
との総攻撃命令が出されます。
音右衛門にも家族がいます。
台湾には、妻と3人の子供たちがいる。
音右衛門は苦慮したうえで、巡査隊の小隊長を務めていた劉維添(りゅういてん)を伴って、米軍にひそかに交渉を行います。
そして二千人の部下たちを前に、こう言った。
諸君。
諸君らは、よく国のために戦ってきてくれた。
しかし、今ここで軍の命令通り犬死することはない。祖国台湾には、諸君らの帰りを心から願っている家族が待っているのだ。
私は日本人だ。
だから責任はすべて私がとる。
全員、米軍の捕虜になろうとも生きて帰ってくれ」
二千人の部下たちは、一同、言葉もなくすすり泣きます。
音右衛門の気持ちが痛いほどわかったのです音右衛門は、部下たちへの訓示のあと、ひとりで壕に入ります。
そして、拳銃をみずからの頭に向けると、頭部2発撃ち、自決した。
昭和20年2月23日午後3時頃のことです。広枝音右衛門、享年40才。
音右衛門の決断によって、海軍巡査隊の台湾青年ら二千名は、生きて故郷の台湾に帰還することができました。
このときの恩を忘れない台湾巡査隊の面々は、戦後、台湾新竹州警友会をつくり、台湾仏教の聖地である獅子頭山にある権化堂に、広枝音右衛門隊長をお祀りします。
そしてさらに広枝隊長から受けた恩義を、末永く語り継ぐべく茨城県取手市の弘経寺に、広枝隊長の「顕彰碑」をも健立する。

弘経寺 広枝隊長 顕彰碑

image/2010-01-20T23:13:021

「顕彰碑」には、以下の文章が彫られています。
---------------------
泰然自若として所持の拳銃を放ちて自決す
時に2月24日なり
その最後たるよく凡人のなしえざるところ。
せんなるかな戦後台湾は外国となりたるも
この義挙により生還するを得た数百の部下達は
吾等の今日あるは、
あのとき、隊長の殺身成仁の義挙にありたればこそと
よろしく称讃し、この大恩は孫々に至るも忘却することなく
報恩感謝の誠を捧げて慰霊せんと昭和51年9月26日隊長ゆかりの地、霊峰獅子頭山権化堂にてその御霊を祀り、
盛大なる英魂安置式を行う。
この事を知り得て吾等日本在住の警友痛く感動し、
相謀りて故人の偉大なる義挙を永遠に語り伝え
その遺徳を顕彰せんとしてこの碑を健立す
   元台湾新竹州警友会
-----------------------
昭和58年5月、小隊長をつとめた劉維添(りゅういてん)氏は、かつての隊長の自決の地であるフィリピンを訪れました。
そこで彼は、隊長終焉の地の土を集め、茨城県取手市に住む、ふみ未亡人に、その土を手渡された。(ふみさん平成元年2月、76歳で永眠)
こうして広枝隊長は、獅頭山の権化堂に神様として祭られ、鬼籍の人となったふみ夫人も、広枝隊長の位牌とともに、かつての部下だった新竹警友会の人たちの手によって、台湾・権化堂に祭られました。
ーーーここまで引用ーーー

他にも台湾では、鳥山頭ダムの八田興一氏、戦時中にグラマンに体当たりして散った杉浦兵曹を祀った飛虎軍廟、森川清次郎巡査を祀った嘉義東石富安宮と多くの日本人が台湾の人達によって大切に今もお祀りされています。

今日、伝えたいことは同じ日本統治を受けながら「負」「怨」「恨」の感情しか残らず、今も歴史的事実をねじ曲げながら日本に謝罪と賠償を求める某半島国家に比べて、台湾の人々の気持ちは非常に温かいということです。

言語や習慣の違う民族が同じ場所で生活を始める。

これは最初から事が上手く運ぶことがないのは自明の理です。

勿論、台湾でも日本と原住民との衝突もあったと聞いていますし、差別的な政策が中には全くなかったとは思いません。

ですが、台湾の人達はその負の部分にはあえて触れず、それどころか清濁抱き合わせて日本統治時代を認め、日本に好意を寄せてくれている人達が今も非常に多い。

また、地理的な位置から中国の領土拡張の為の侵攻の一番の対象となっており、日本の力を求めている人達も沢山います。
そんな台湾と台湾人の思いに戦後日本は冷たすぎました。

そして中国共産党の工作活動により、日本の政界に親中派、媚中派と呼ばれる者がはびこり、中国に媚びへつらう日本の姿は多くの台湾人を絶望させてきてしまいました。
しかし、もういい加減に目覚めなければならない時に来ているのではないか?と思う訳です。

かつて日本は白人の植民地支配から東アジアの人達を解放するために立ち上がりました。


今度は中国という膨張を続けるファシズム国家から侵略を受け、苦しんでいる少数民族やその脅威に晒されている周辺諸国に力をかすために立ち上がらないとなりません。
(その為にはまず、民主党政権を倒閣させて政権を日本人のもとに取り戻さないと、日本自体が危険な状況ではありますがw)


その熱烈なラブコールを送ってくれているのが台湾です。

どうか台湾に目を向け、耳を傾けてみて下さい。
今まで聞き逃していた大切な声が聞こえてくる筈です。


台湾は日本の生命線!
台湾と日本は一心同体!
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2009年06月12日

世界に愛された日本〜教科書に乗らない歴史E 【太陽と月とペリリュー島に咲く桜】

日本とパラオ
〜太陽と月とペリリュー島に咲く桜〜

image/2009-06-11T23:48:331

第一次世界大戦と日本
〜スペインからドイツ、そして日本へ〜
パラオを含むミクロネシアの歴史は搾取と支配の歴史だった。 1543年、スペイン人がこの島々を発見。 それからスペイン植民地時代が続き、1899年にスペインはミクロネシアの統治権をドイツに売却。 その後、1914年に第一次世界大戦が勃発し、日本はドイツよりパラオを含むミクロネシアの島々を占領。 大戦終了後の1920年、国際連盟よりパラオを含むミクロネシアの日本委任統治が認められる。 パラオのコロール島に南洋庁本庁が置かれ、日本からの多数の移民がパラオに押し寄せた。 ただ、日本が欧米と違ったのは徹底したインフラ整備であった。パラオの町に電気をともし、市場経済を根付かせ、道路の整備や島と島を繋ぐ橋も数多く建設された。 教育においては現地に公学校を設置、日本語・算数・理科などが教えられ、日本人医師が渡り、薬のある医療施設も設けられた。 缶詰工場やビール工場も作られ、日本から渡った熟練者が現地の人々の指導し、サトウキビの栽培・真珠の養殖なども日本統治時代に定着した産業といわれている。 パラオの人々は日本から勤勉の尊さを教わったとい
われている。 それまでの搾取するだけだった白人支配社会と違い、先頭を切って畑を耕し、汗を流して土木・建築作業にあたる日本人の生真面目さ、パラオの発展を我が国かの様に尽力する日本人の姿に、純朴なパラオの人々は次第に心を開き、やがて心が通い合う様になった。

image/2009-06-12T00:17:391

(当時の街並み)

大東亜戦争とサクラ・サクラ
〜武士道とは信念に死ぬ事と見つけたり〜

image/2009-06-11T23:48:332

(現在のパラオ)

大東亜戦争末期、日本軍は補給が途絶え、備蓄も尽き、もはや負けるのは時間の問題であった。 しかし日本軍は降伏する事も逃げる事もなく、最後の最後まで戦い、玉砕した。 パラオにペリリューという島がある。南北9キロ・東西3キロ・高さ80メートル・全体で20平方キロの珊瑚礁の小島である。 当時、日本軍はフィリピンを防衛する為に、その島に東洋最大といわれる飛行場を建設していた。 フィリピン攻略を目指すアメリカ軍は戦況を有利に運ぶ為、ペリリュー島に進軍。 1944年9月ついに島は戦場となった。 勇名を以て鳴るハルゼー米軍大将が指揮する第三艦隊300艘の戦艦に対し、日本軍は水戸の第十四師団座下の歩兵第二聯隊を主力とした地区隊・中川州男大佐率いる1万2000名の兵士のみ。 もとより乏しい武器・弾薬・食料を補給するすべすらない文字どおりの玉砕戦。 しかし、日本軍はこれを持久戦に持ち込み、73日間この島を死守。 11月24日、生き残る日本兵は60人足らずとなり、いずれも負傷していて、もはや玉砕以外ありえな
いと悟った中川州男大佐と、そして第十四師団から派遣されていた村井権治郎少将・飯田義栄中佐の三人は、それぞれ古式に則って切腹。 根本甲子郎大尉以下、傷だらけの五十五名による最後の決死隊が夜鬼の如くになって突撃。 24日の夜から27日七時頃までの間に米軍と激しく交戦、全員玉砕。 そして、軍旗も機密書類も焼却したことを意味する最後の電文「サクラ・サクラ」がパラオ本部に届いたのは、11月24日16時の事であった。 中川大佐の最期や命令を知るすべもなかった西海岸守備隊は、その後も抵抗を続けていた。 米軍から武器弾薬はもとより食糧衣類を奪い、神出鬼没のゲリラ戦を続け、山口永少尉以下、陸海軍の生き残った三十四名、それも敗戦後の昭和22年4月22日まで、彼らはおよそ二年半にわたって戦闘を続行した。 この生き残り兵の大半は、最初、米軍が西海岸に上陸した時に最も果敢に戦った勇者たちで、彼らが仕掛けた魚雷で米軍戦艦が爆破されるたび、青い海はアメリカ兵の血で真っ赤に染まったと言い伝えられている。 これを見ていたアメリカ兵が、誰から
ともなくこの浜を「オレンジ・ビーチ」と呼ぶ様になり、現在では「オレンジ・ビーチ」は正式名称になっている。

image/2009-06-11T23:54:251
(現在のオレンジビーチ)

ニミッツ提督著書『太平洋海戦史』
「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約四割)を甘受しなければならなかった。既に制海権・制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは、今もって疑問である」



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世界に愛された日本〜教科書に乗らない歴史E 【太陽と月とペリリュー島に咲く桜】

ペ島の桜を讃える歌
〜ペリリュー島に咲く桜〜

ペリリュー島民は日本とともにアメリカと戦う事を決意したという。 しかし日本軍はこれを押し止め、船舶の乏しい中、空襲を避けつつ夜間を利用して全員をパラオ本島へ避難させた。

その当時の日本兵と島民の間での有名なエピソードです。

【日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌っていた村人は、仲間たちと話し合った。
そして村人たちは、大人も子供も、一緒になって日本軍とともに戦おう。
そう決めた彼らは、代表数人とともに、日本の守備隊長である中川州男大佐のもとを訪れます。
平素、温厚な中川隊長なら、自分たちの一緒に戦うという頼みを聞いてくれるに違いない。
そして中川隊長に、「自分たちも一緒に戦わせてほしい」と申し出た。
それを聞いた中川隊長は、瞬間、驚くような大声をあげた。「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」
…驚いた。日本人は仲間だと信じていたのに、みせかけだったのか…。
村人たちは、日本人に裏切られた思いで、みんな悔し涙を流した。
そして、日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきた。
港には、日本兵はひとりも、見送りに来ない。
村人たちは悄然として船に乗り込んだそうです。
そして、汽笛が鳴る。
船が岸辺を離れた…
次の瞬間、ペリリュー島に残る日本兵全員が、浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送った。

そのとき、船上にあった村人たちは、わかった。
日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。
涙が出た。
岸辺に見える日本兵に向かって、村人たちは、号泣しながら、手を振った。
誰もが泣いた。ちぎれるほどに手を振った。】

image/2009-06-12T00:02:421

(中川州男大佐
1898年1月23日 - 1944年11月24日
享年47才)


ようやく戦闘が終わったペリリュー島へ戻った住民たちは、恐るべき光景を目の当たりにした。 米軍の激しい絨毯爆撃により、その形を変えていた珊瑚の島と、そしてそこに転がるおびただしい数の日本兵の遺体。 島の人々はこれを見て涙を流したという。 「アメリカ人は、日本人の遺体には見向きもせず、自国兵の遺体だけを整理した。ここに、征服民族の本性を見る」として、島民はこぞって日本軍の遺体を弔い、墓地を作ってくれたのである。 そして日本人が、いつ訪れても良い様にと、その後も墓地の清掃に心掛けてくれていた。 現在でも島民の親日感情は極めて強く、日本統治時代を懐かしみ、「愛国行進曲」を間違わずに歌って聴かせ、日本人と見れば、「日本という国は何千年来の伝統を持ち、独自の文化を創りあげてきた。その結晶が天皇と教育勅語だ」という趣旨を熱く語り、日本人の度胆を抜くという。 1981年(昭和56年)一月、パラオ共和国の憲法が発布された。 ペリリュー兵士の歌「ペ島の桜を讃える歌(作詞者:オキヤマ・トヨミ氏、ショージ・シゲオ氏)」も作られた。

激しく弾雨(たま)が降り注ぎ オレンジ浜を血で染めた
強兵(つわもの)たちはみな散ってペ島(じま)は総て墓地(はか)となる

小さな異国のこの島を死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない

将兵(ヘいし)は“桜”を叫びつつこれが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ別れの“桜”に意味深し

日本の“桜”は春いちど見事に咲いて明日(あす)は散る
ペ島(じま)の“桜”は散り散りに玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に

今守備勇士(もののふ)の姿なく残りし洞窟(じんち)の夢の跡
古いペ島(じま)の習慣で我等勇士の霊魂(たま)守る

平和と自由の尊さを身を鴻(こな)にしてこの島に
教えて散りし“桜花”今では平和が甦る

どうぞ再びペリリューヘ時なし桜花(さくら)の花びらは
椰子の木陰で待ち佗(わび)しあつい涙がこみあげる

戦友遺族の皆さまに永遠(いついつ)までもかわりなく
必ず我等は待ち望む
桜とともに皆さまを

ペリリュー島に桜の木はない。 桜を見た事のある者は皆無といっていい。 彼らの、ペリリュー島の玉砕戦を日本の国花・桜に託し、見事に謳いあげた歌詞である。 サクラ・サクラという最後の電文を打って、文字通り集団の桜花のように散っていった彼ら一万余の英霊も、もって冥することが出来るといえる。 翌年1982年(昭和57年)、「青年神職南洋群島慰霊巡拝団」20名が船坂弘氏の助力を得て、ペリリュー神社が建立された。 日本から運搬した材料を使い、島民の多大の協力を得て、10日間を費して完成した。 御祭神は天照大御神と戦没者の一万余柱の「護国の英霊」である。 また、ペリリュー神社には米軍ニミッツ元帥による以下の日英2文が記されている。
「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.」
「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を…」

終戦とパラオ下院議員イシドウロウ氏
〜アメリカ信託統治から悲願の独立へ〜
日本は敗戦した。 パラオの首都コロールに、米軍が進駐して来て最初にやったことは、イシドウロウ氏のご両親が毎日お参りしていたという南洋神社を破壊することだった。 ご両親は悲しみに暮れ、この子が大きくなったらきっと再建してくれると期待し、神社の入り口にあった大きな石灯籠(いしどうろう)に因んでイシドウロウと命名したのだった。 パラオの電話帳を広げると多くの人が日本に縁のある名前を持っている。 そして、その一つ一つに日本への深い想いが込められている。 戦後、1947年からパラオはアメリカの信託統治領となり、アメリカ人は現地に想像以上の日本文化が根付いていることに驚き、日本的なものをすべて破壊した。 南洋神社はもちろんの事、校庭の二宮金次郎(尊徳)の銅像は引きずり降ろされた。 日本人の耕した畑は掘り返され、道路も剥がされた。 1994年、パラオはアメリカから独立した。 独立にあたって国旗を制定することになり、国民の間から一般公募した結果、日の丸をもじった今の『青い海』と『満月』をデザインしたものに決まった。 「月と海」は愛、平
和、静穏、豊穣を表現するとともに
「月は太陽があってこそ輝く。我々パラオは月のように日本から命を受けて光っている」という意味が込められているという。 満月が少しだけ左に寄ってるのは、真ん中ではあまりに似すぎて日本に失礼との配慮からだという。 これはパラオの人たちの日本に対する慎み深い配慮と敬愛の意をよく表しているといえる。

image/2009-06-12T00:05:481

ーーーここまで引用ーーー


日本人は戦後のGHQの占領政策により徹底的に洗脳が施され、大東亜戦争は侵略戦争であり、大東亜共栄圏は侵略戦争を正当化する為の後付けである。という戦前の日本が掲げた理念を否定するかのような意見が横行しています。

しかし、ホントにそうだったのでしょうか?

フィリピン、インドネシア、タイ、インドそしてパラオ、他、東南アジアの国々の人達は皆、侵略者は白人であり、日本人は植民地化していていたその国々に技術と教育、そして資金を投入して近代化させて独立の基盤を作ってくれたことをわかっているのです。

各国々が日本に払ってくれている敬意を知るほどに、特定アジア三国のいう従軍慰安婦強制連行や南京大虐殺など、日本を貶めて自分達に都合の良い特権を生み出す為の政治カードとなっており、歴史的事実とは全く関係ない問題となってるいことがよくわかります。

歴史を抹殺された民族は溶解し滅んでいくことは歴史が証明しています。

抹殺された真実を知り、自分達の祖国と先人達に感謝の想いを持ち、日本人としての誇りを取り戻していくことが大切です。

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2009年05月20日

世界に愛された日本〜教科書に載らない歴史D【敵兵を救出した武士道精神】

この敵兵を救出した駆逐艦雷艦長「工藤俊作氏」のことは昨年暮れにも取り上げましたが

http://conikki.seesaa.net/article/110951894.html

ここでもう一度詳しくエントリーしてみたいと思います。

image/2009-05-20T09:29:051

敵兵422人を救助した武士道
「貴官らは日本帝国
海軍の名誉あるゲストである」

■1.「旧敵との和解」■

 1998(平成10)年4月、英国では翌月に予定されている天皇の英国訪問への反対運動が起きていた。その中心となっていたのは、かつて日本軍の捕虜となった退役軍人たちで、捕虜として受けた処遇への恨みが原因であった。

 その最中、元海軍中尉サムエル・フォール卿がタイムズ紙に一文を投稿した。「元日本軍の捕虜として、私は旧敵となぜ和解することに関心を抱いているのか、説明申し上げたい」と前置きして、自身の体験を語った。

 大東亜戦争が始まってまもなくの1942(昭和17)年2月27日、ジャワ島北方のスラバヤ沖で日本艦隊と英米蘭の連合部隊の海戦が始まった。連合部隊の15隻中11隻は撃沈され、4隻は逃走した。3月1日にスラバヤ沖で撃沈された英海軍の巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」の乗組員4百数十名は漂流を続けていたが、翌2日、生存の限界に達した所を日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」に発見された。

「エンカウンター」の砲術士官だったフォール卿は、「日本人は非情」という先入観を持っていたため、機銃掃射を受けて最期を迎えるものと覚悟した。

 ところが、駆逐艦「雷」は即座に「救助活動中」の国際信号旗を掲げ、漂流者全員422名を救助したのである。艦長・工藤俊作中佐は、英国海軍士官全員を前甲板に集め、英語で健闘を称え、「本日、貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである」とスピーチしたのだった。そして兵員も含め、全員に友軍以上の丁重な処遇を施した。

 このフォール卿の投稿によって、以後の日本批判の投書はことごとく精彩を欠くことになった。

■2.「オラが艦長は」■

 工藤が駆逐艦「雷」の艦長として着任したのは、昭和15(1940)年11月1日だった。身長185センチ、体重95キロと大きな体に、丸眼鏡をかけた柔和で愛嬌のある細い目をしていた。「工藤大仏」というあだ名を持つ温厚な艦長に、乗組員たちはたちまち魅了されていった。

 着任の訓示も、「本日より、本官は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する」というものだった。士官たちには「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな」と口癖のように命じた。見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ」と誉めた。

 酒豪で何かにつけて宴会を催し、士官と兵の区別なく酒を酌み交わす。兵員の食事によく出るサンマやイワシが好きで、士官室でのエビや肉の皿を兵員食堂まで持って行って「誰か交換せんか」と言ったりもした。

 2ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは「オラが艦長は」と自慢するようになり、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」とまで公言するようになった。艦内の士気は日に日に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していった。

■3.海軍兵学校・鈴木貫太郎校長の
教育■

 工藤艦長は、海軍兵学校51期だったが、入学時に校長をしていた鈴木貫太郎中将の影響を強く受けた。鈴木はその後、連合艦隊司令長官を務めた後、昭和4年から8年間も侍従長として昭和天皇にお仕えした。その御親任の厚さから、終戦時の内閣総理大臣に任命されて、我が国を滅亡の淵から救う役割を果たす。

 工藤ら51期が入学した時に校長に着任した鈴木は、従来の教育方針を以下のように大転換した。

・鉄拳制裁の禁止・歴史および哲学教育強化・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)日本古来の武士道には鉄拳制裁はない、というのが、その禁止の理由だった。工藤ら51期生は、この教えを忠実に守り、最上級生になっても、下級生を決してどなりつけず、自分の行 動で無言のうちに指導していた。

 歴史および哲学教育の強化の一貫としては、鈴木自身が明治天皇御製についての訓話を行い、

四方の海皆はらからと思ふよになど波風に立ちさわぐらん

の御製から、明治天皇の「四海同胞」の精神を称えている。
工藤の敵兵救助も、この精神の表れであろう。

■4.日本海軍の武士道■

 大東亜戦争開戦の2日後、昭和16(1941)年12月10日、日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の「不沈艦プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」を撃沈した。

 駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の乗組員たちの救助を始めたが、日本の航空隊は一切妨害せず、それどころか、手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、という仕草を送った。さらに救助活動後に、この駆逐艦がだったわけではない。

 昭和17(1942)年2月15日、シンガポールが陥落すると、英国重巡洋艦「エクゼター」と駆逐艦「エンカウンター」は、ジャワ島スラバヤ港に逃れ、ここで、アメリカ、オランダ、オーストラリアの艦船と合同して、巡洋艦5隻、駆逐艦9隻からなる連合部隊を結成した。

 この連合部隊に、日本海軍の重巡「那智」「羽黒」以下、軽巡2隻、駆逐艦14隻の東部ジャワ攻略部隊が決戦を挑んだ。
日本海海戦以来、37年ぶりの艦隊決戦である。

 2月27日午後5時、海戦が始まった。当初、「雷」は開戦以来、敵潜水艦2隻、哨戒艇1隻撃沈という戦闘力の高さを買われて、艦隊後方で指揮をとる主隊の護衛任務についていた。
そこに「敵巡洋艦ヨリナル有力部隊発見、我交戦中」との信号を受けて、主力は戦場に向かった。しかし、到着した時には、敵艦隊はスラバヤに逃げ込んで、肩すかしを食らった。

 2月28日、「エクゼター」は被弾箇所の応急修理を終え、「エンカウンター」と米駆逐艦「ポープ」を護衛につけて、インド洋のコロンボへと逃亡を図った。しかし、3月1日に「雷」の僚艦「電(いなづま)」を含む日本の駆逐艦隊に取り囲まれ、攻撃を受けた。

■5.「沈みゆく敵艦に敬礼」■

 午後12時35分、「電」は指揮官旗を翻す「エクゼター」に砲撃を開始した。「エクゼター」はボイラー室に被弾して、航行不能に陥った。午後1時10分、「撃ち方止め!」の号令が下され、敵艦に降伏を勧告する信号が発せられた。

 しかし、艦長オリバー・ゴードン大佐は降伏せず、マストに「我艦を放棄す、各艦適宜行動せよ」の旗流信号を掲げた。
ここで「エクゼター」の乗組員たちは、次々と海中に飛び込み、日本艦隊に向かって、泳ぎ始めたのである。「エクゼター」では、士官が兵に対し、「万一の時は、日本艦の近くに泳いでいけ、必ず救助してくれる」といつも話していた。「プリンス・オブ・ウェールズ」沈没の際の日本海軍の行動が記憶にあったのだろう。

「電」は、傾いた「エクゼター」に魚雷を発射して、とどめを刺した。「電」艦内に、「沈みゆく敵艦に敬礼」との放送が流れ、甲板上の乗組員達は、一斉に挙手の敬礼をした。その敬礼に見送られて、「エクゼター」は船尾から沈んでいった。

 まもなく「海上ニ浮遊スル敵兵ヲ救助スベシ」の命令が出された。救命ボートに乗っている者、救命用具をつけて海面に浮かんでいる者に対して、「電」の乗組員は、縄ばしごやロープ、救命浮標などで、救助にあたった。蒼白な顔に救出された喜びの笑みをたたえ、「サンキュウ」と敬礼して甲板にあがってくる者、激しい戦闘によって大怪我をしている者などが、次々と助け出された。

 甲板上に収容された将兵には、乾パンとミルクが支給された。
「電」によって救助された「エクゼター」乗組員は376名に上った。
(続く)



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世界に愛された日本〜教科書に載らない歴史D【敵兵を救出した武士道精神】


image/2009-05-20T09:31:001

■6.重油の海での漂流■

 駆逐艦「エンカウンター」は、旗艦「エクゼター」が停止した時、その「各艦適宜行動せよ」という命令に従い、単独での航行を続けた。艦長モーガン少佐は「エクゼター」の乗組員を救助すべきかと、一瞬迷ったが、「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」沈没の際の日本海軍の行動を覚えていたので、こう決断したのである。

 しかし、その「エンカウンター」も日本艦隊の追撃を受け、8千メートル東方の海域で、30分後に撃沈された。この時、20歳の砲術士官だったフォール卿は、こう証言している。

 艦長とモーターボートに乗って脱出しました。その直後、小さな砲弾が着弾してボートは壊れました。・・・この直後、私は艦長と共にジャワ海に飛び込みました。

 間もなく日本の駆逐艦が近づき、われわれに砲を向けました。固唾をのんで見つめておりましたが、何事もせず去っていきました。

 この時は、米蘭の潜水艦がジャワ海で行動しており、敵の攻 撃をいつ受けるか分からない状況では、国際法上は、海上遭難者を放置しても違法ではない。

「エンカウンター」の乗組員たちは、自艦から流出した重油の海につかり、多くの者が一時的に目が見えなくなった。その状態で、約21時間も漂流した。

■7.「これは夢ではないか」■

 そこに偶然、通りかかったのが、駆逐艦「雷」だった。見張りが「漂流者400以上」と報告した。工藤艦長は敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、「救助!」と命じた。

「雷」の手の空いていた乗組員全員がロープや縄ばしご、竹竿を差し出した。漂流者たちは、われ先にとパニック状態になったが、青年士官らしき者が、後方から号令をかけると、整然と順番を守るようになった。

 重傷者から救う事になったが、彼らは最期の力を振り絞って、「雷」の舷側に泳ぎ着いて、竹竿に触れるや、安堵したのか、ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。甲板上の乗組員たちは、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」と呼びかける。この光景を見かねて、何人かの乗組員は、自ら海に飛び込み、立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻き付けた。

 こうなると、敵も味方もなかった。まして同じ海軍軍人である。甲板上で「雷」の乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者もいた。無事、救出された英兵は、体についた重油を乗組員が布とアルコールで拭き取ってやった。新しいシャツと半ズボン、靴が支給され、熱いミルクやビール、ビスケットが配られた。

 フォールズ卿はこう回想している。

 私は、まさに「奇跡」が起こったと思い、これは夢ではないかと、自分の手を何度もつねったのです。

■8.「今や諸官は、日本海軍の名誉
あるゲストである」■

 間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられた。

 すると、キャプテン(艦長)・シュンサク・クドウが、艦橋から降りてきてわれわれに端正な挙手の敬礼ををしました。われわれも遅ればせながら答礼しました。

 キャプテンは、流暢な英語でわれわれにこうスピーチされたのです。

 諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなことである。

「雷」はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、たとえ遙か遠方に一人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止し、乗組員総出で救助した。水没したり、甲板上で死亡した者を除いて、午前中だけで404人、午後は18人を救助した。
乗組員約150名の3倍近い人数である。

 翌日、救助された英兵たちは、オランダの病院船に引き渡された。移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、またウィングに立つ工藤に敬礼した。工藤艦長は、丁寧に一人一人に答礼をした。兵のほうは気ままなもので、「雷」に向かって手を振り、体一杯に感謝の意を表していた。

■9.「サイレント・ネービー」の伝統■

 フォール卿は、戦後、外交官として活躍し、定年退職後、1996(平成8)年に自伝『マイ・ラッキー・ライフ』を上梓し、その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記した。

 平成15(2003)年10月、フォール卿は日本の土を踏んだ。
84歳を迎える自身の「人生の締めくくり」として、すでに他界していた工藤艦長の墓参を行い、遺族に感謝の意を表したいと願ったのである。しかし、あいにく墓も遺族も所在が分からず、フォール卿の願いは叶えられなかった。

 フォール卿から依頼を受けて、恵隆之介氏は3ヶ月後に、遺族を見つけ出した。
工藤俊作の甥・七郎兵衛氏は「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のことは口外しなかった」と落涙した。
サイレント・ネービーの伝統を忠実に守って、工藤中佐は己を語らず、黙々と軍人としての職務を忠実に果たして、静かにこの世を去っていったのである。
ーーーここまで引用ーーー


戦闘海域での救助活動は艦を停止して行わなければならず、その時こそ敵潜水艦にとって絶好のチャンスになります。

まして駆逐艦の薄い鋼板であれば一発の魚雷が致命傷になる危険がある訳です。
そのために沈没した僚艦の乗組員を救出しようとして攻撃を受け自分達が沈没、戦死してしまった事例も少なくありません。

まして米軍は日本海軍の艦艇だけでなく病院船まで攻撃し、脱出し漂流する看護婦にまで機銃掃射を加えているのです。
そのような中で帝国海軍、並びに駆逐艦雷の工藤俊作艦長のとった救出活動は敵国であった英国の兵士達に「日本の武士道精神の実践」と賞賛され讃えられています。

また、サミュエル・フォール氏(89)は昨年暮れの2度目の来日の下りに無事、工藤俊作艦長の墓参りをされ墓前にてお礼を述べられました。

その際には英国の騎士道の形式でお参りをされ、正に日本の武士道精神と英国の騎士道精神が結んだ両国の絆と言えるでしょう。

自らの危険を顧みず、敵兵を救出した工藤俊作艦長の示した武士道精神。

日本人として、とても誇りに思うと共にその精神を継承していかなくてはならないと感じました。



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2009年05月02日

世界に愛された日本〜教科書に載らない歴史C【インドネシア独立に命を捧げた日本兵】

【インドネシア残留日本兵、宮原永治さんに旭日単光章】

第2次大戦後、インドネシアに残って対オランダ独立戦争に参加した宮原永治さん(89)が29日、春の叙勲で旭日単光章を受ける。残留日本兵の互助組織の運営に携わってきたことが評価され、「こんな栄誉をもらえるとは夢にも思わなかった」と話す。
 宮原さんの現地名はウマル・ハルトノ。日本統治下の台湾で生まれ、従軍してフィリピンなどを転戦後、インドネシアで敗戦を迎えた。「台湾に戻ると、敵だった国民党に処刑されるかもしれない」と考えインドネシアに残留。約900人の日本兵とともに独立戦争に参加した。半数以上が戦死し、約300人が独立後のインドネシアに残った。
 その後、日本の商社で仕事を見つけたが、生活に困窮する戦友が続出。79年に情報交換と助け合いを目的に107人の元日本兵で「福祉友の会」を結成した。元日本兵は宮原さんを含め4人だけになったが、遺族らが会を支え、会報の発行などを続けている。
 福祉友の会で顧問を務める宮原さんは、インドネシア人の妻との間にできた三女とその夫との3人暮らし。「インドネシア人は裏表がなく、親しみやすい。国内には資源も多く、 将来は立派な国になる」と信じている。
ーーーここまで引用ーーー



【旭日単光章】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋
日本の勲章の一つ。1875年(明治8年)4月10日に制定され、2003年(平成15年)11月3日に改正された。“国家または公共に対し功労がある者の内、功績の内容に着目し、顕著な功績を挙げた者”に対して授与される。

インドネシアのオランダからの独立戦争に参加した宮原永治さん(89)が旭日単光章を受賞するというニュースが伝えられました。

ソースが朝日新聞なのが???ですが、ともかく嬉しいニュースです。

何度も言いますが日本では敗戦によりGHQの洗脳教育が徹底的に行われ、近現代史の真相がすり替えられ、日本は悪いことをした。あの戦争は侵略戦争だった。という自虐史観がまかり通っています。

真実を広めようと勇気を持って発言する人が貶められ、失脚したり言論を弾圧される実態がある中で今回の宮原永治さんの件は非常に有意義なことだと感じます。


image/2009-05-02T02:37:501

インドネシアのムルデカ広場に立つ独立の塔

イン
ドネシアの夜明け

【インドネシア独立を担った人々が語る日本人との心の交流。】

■1.二人のインドネシア人■

 大東亜戦争というものは、本来なら私たちインドネシア人が、独立のために戦うべき戦争だったと思います。もしあの時私たちに軍事力があったなら、私たちが植民地主義者と戦ったでしょう。
独立戦争中は情報面の責任者として活躍したズルキフリ・ルビスの言葉を聞こう。

 オランダに再植民地化をあきらめさせる中心となったのは義勇軍出身者でした。
日本がインドネシアにもたらしたもの中で、最も素晴らしかったことは訓練ですが、それがインドネシアの独立にとって最も重要な要素となったのです。
...もし義勇軍がなかったならば、インドネシアの独立は南米のスリナム共和国のように長期間かかっていたかもしれません。スリナム共和国は、オランダから独立するのにインドネシアの独立からさらに30年もかかりましたから。

インドネシアが独立の夜明けを迎えるのに、日本軍は大きな役割を果たした。それがどのようなものだったのか、この二人の証言を聞いてみよう。

■2.日本軍にびっくり■

 ルビスは大東亜戦争開戦時はジャワ島中部のジョグジャカルタの高校生だった。当時のほとんどの家庭は子供を学校に通わせる余裕はなかったが、裕福な旧家に生まれたルビスは限られた例外の一人だった。
1942年3月、突然、日本軍がジャワ島に攻めてきました。
町が急にあわただしくなってきました。
それまでオランダ植民地政庁はインドネシア人にとって絶対的な力を持っておりましたから、たとえ日本軍が攻めてきたとしても微動だにしないものだと思われていました。
しかし、ジョグジャカルタがあわただしくなって数日もしないうちにオランダ植民地政庁は日本軍に降伏してしまいました。
ジョグジャカルタでは戦闘もなく、あまりにも簡単にオランダが降伏したので、私たちはびっくりしてしまいました。
 インドネシア総督のチャルダは逮捕され、町にいたオランダ人たちもどこかに逃亡した。
それまでインドネシアを支配していたオランダ人がいなくなり、インドネシア人ははじめて自由というものを感じました。大人も子供も訳もなくオランダが敗れたことを喜び、興奮し、やがて日本軍が町や村へ来ると大歓迎しました。インドネシアでこれほど歓迎された外国人は、これまでなかったでしょう。
 ところが、ジョグジャカルタにやってきた日本軍を見ると、どの日本人も私たちと同じように小柄で、同じ色の肌をしているので、さらにびっくりしました。
■3.画期的な教育政策■

 日本軍がやってきた時、ナチールは33才、イスラム協会の会長として社会改革運動に従事していた。日本軍はオランダ植民地政庁を倒してくれたが、単に支配者が交替しただけかもしれない、と疑っていた。
 しかし、日本軍はナチールの予想もしなかった事を次々と始めた。第一に幽閉されていた独立運動の指導者スカルノ、ハッタを解放し、インドネシア側代表の位置につけた。第二にイスラム教に対する制約を撤廃し、マシュミ(インドネシア回教連合会)を作って、イスラム教の指導者達が初めて直接話ができるようにした。
 日本軍のやったことで三番目に注目すべきことは、インドネシアの教育に力を入れたことでしょう。
これもオランダの政策とまったく違っていました。オランダの植民地政庁は長い間愚民政策を採ってきました。インドネシア人を教育すると、目覚めてオランダに反抗するかもしれませんし、また、農業に従事するだけなら教育は必要ありません。
・・・学校に通うことのできるインドネシア人は全体の数%くらいではなかったでしょうか。・・・
 ところが日本軍は、やって来ると、さっそく教育に力を入れ始めました。戦争でいったん休校になった学校を再開し、すぐに3年間の初等国民学校と、その上にさらに3年間勉強できる国民学校作りました。・・・日本軍がきてわずか1年あまりで、それまでの倍近くの子供が学校に通うようになりました。
 日本軍は行政機構への現地人登用を進め、ナチールはバンドン市の教育部長に任命された。そして権限を与えられ、仕事を任せられた。これもオランダ時代にはなかった画期的なことだった。
 教育に関する日本軍からの命令は、オランダ語の禁止と、日本語、唱歌、教練を含めることだけだったので、ナチールはインドネシア人としての自覚を持たせるようなカリキュラムを組んだ。本格的にインドネシアの歴史を教えるようにしたが、これもはじめてのことだった。また日本軍からインドネシア語の外に地方語の教育も勧められていたので、バンドンで広く使われていたスンダ語の授業を取り上げた。

■4.熱心に仕事をする以外に独立を
実現する道はない■
 半年ほどもすると、バンドン市の属するプリアンガン州の内政部長として姉歯準平が赴任してきた。戦前に長くスラバヤやジャカルタの総領事を務めて、インドネシアとは関係の深い外交官だった。
 姉歯はよくナチールや市の有力者数人を集めては日本軍の軍政に関する意見を聞き、また自身の考えを語った。
 日本がインドネシアにやって来た目的は、インドネシアの独立を支援することで、日本人がここにいるのはあとわずかだろう。まずこれをしっかり頭に入れてほしい。 次に、将来、インドネシアが独立したなら、インドネシア人の中で首相が選ばれるだろうが、私は皆さんの中から首相が出ることを期待している。
 そう述べた上で、朝7時から午後2時までの定時間を務めればすぐに帰ってしまうナチールらを注意した。姉歯は6時頃まで仕事をし、さらに書類を家に持って帰って仕事を続けていたのである。
 インドネシア人は独立、独立と叫んでいるようだが、熱心に仕事をする以外に独立を実現する道はない。独立してもきちんと行政ができるように今から準備すべきで、そうでなければ、独立国としてやっていけないだろう。他の人はどうあれ、まずみなさんが率先しなければならない。
ナチールは恥ずかしい思いをすると共に、姉歯の考え方に共鳴した。










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世界に愛された日本〜教科書に載らない歴史C【インドネシア独立に命を捧げた日本兵】

■5.「青年道場」■

ジョグジャカルタに日本軍がやってきて数ヶ月した時、日本の青年訓練所でインドネシアの青年に軍事訓練を施すから希望者は集まれ、というビラが貼り出された。日本軍がオランダ植民地政庁を倒すのを見て、独立のためには自らの軍隊を持たねばならない、と考えていたルビスは、絶好の機会だと思って、すぐ応募した。 数百名の希望者の中から選抜で90名が選ばれ、ルビスも無事合格した。そこで3ヶ月の軍事訓練を受けた後、昭和18(1943)年1月、ルビスと3名はより本格的な訓練を受ける為に、ジャカルタ近郊のタンゲランに新しく設置された「青年道場」に派遣された。 青年道場には、インドネシア各地の青年訓練所から選りすぐった二十歳前後の青年47名が第一期生として入学し、現場の責任者の柳川宗成中尉の訓示を受けた。
訓示の内容は、アジアを解放するために日本軍はインドネシアに来たが、独立は自分の力で成し遂げるものである。
しかしインドネシアは教育や軍事などあらゆる面で遅れているので、いますぐ独立はできないだろう、日本軍は知っていることをすべて教えるので、一日も早く学んで立派に独立してほしい、というものでした。
 訓示の中で、悠長に構えている暇はないと度々強調されましたので、私たちの間には、緊張感が漲り、一刻の猶予もないのだ、とにかく早くいろいろなことを習得しなければならないという思いがいっぱいになりました。

■6.日本軍の率先
 青年道場では、朝5時から夜10時まで、軍事訓練、精神訓話、体育訓練、実地訓練などが行われた。精神訓話では、「正直であれ」、「勇気を持て」、「常に前進せよ」の3点を厳しく叩き込まれた。またインドネシアの歴史を初めて学んだ。
 実地訓練は、教官が自ら率先してやってみせる、という教え方がとられ、自営農場での農作業では、柳川中尉自らふんどし姿で肥おけをかついだ。中上流の家庭出身者が多い訓練生たちは農作業の経験もなく、臭くていやがったが、やりながら自分 のものにしていった。こうして教官と生徒の間の一体感も生まれていった。

ある時、午前中の野外訓練が終わった時、厳しさが欠けているというので、一人の小団長候補生が銃を持って立っているように命令された。午前中だけでもくたくたになり、その上の炎天下で直立不動というのは、大変な罰だった。その時、中隊長の土屋競中尉が、何も言わず、小団長候補生の隣で同じように直立不動で立ち始めた。二人は一時間ほど、午後の訓練の合図まで立ち続けた。
 私たちはそれをずっと見ていましたが、すばらしいことだと思いました。これまでインドネシアでこのような教育をする人はいませんでした。・・・インドネシアの若者全員に知れ渡り、全員感動しました。
 土屋中隊長は、まだ20代半ばで、私たちとそれほど年齢は離れていませんが、常に私たちのことを考えていたと思います。訓練期間中、苦しくて倒れそうになると、いまはインドネシアが独立したときの要人を育成しているのだとか、インドネシア国軍が創設されたとき中心になる軍人してもらい、20数年ぶりに会っています。
 ルビスは日本軍から受けた教育を次のように総括している。
 そこでの教育はインドネシア人の民族精神を改革した画期的なものといえるのではないでしょうか。まず愛国心を育てたことであり、次に死を恐れぬ精神を植え付けたことです。さらにいえば、向上心を涵養したことなどもあげられると思います。

■7.「ムルデカ17805」■

 ナチールは独立後の首相となり、またルビスの青年道場での同期生スハルトは第2代大統領となった。独立は自らの力で勝ち取るものであり、そのための人材育成こそが急務であるという日本軍の方針は、見事に奏効したと言える。


この二人の証言に共通しているのは、姉歯準平氏、柳川宗成中尉、土屋競中尉らとの心の通った人間関係である。インドネシアの独立を願うこれらの日本人のまごころは、ナチールやルビスに伝わったのである。
日本軍の降伏した2日後、1945年8月17日に後の正副大統領スカルノとハッタは急遽インドネシア独立を宣言する。しかしオランダは再植民地化しようと軍隊を送り込み、インドネシアは4年5ヶ月もの独立戦争を戦わねばならなかった。この中心となったのが、ルビスら、日本軍によって鍛えられた義勇軍だった。日本軍は彼らに大量の武器を渡し、また1〜2千名の日本兵が、独立軍に身を投じて一緒に戦い、そのうち400名ほどの人々が戦死した。
ジャカルタ郊外ののカリバタ国立英雄墓地にもインドネシア独立の戦士たちとともに11名の日本人が手厚く葬られている。

ムルデカとは「独立」、17805とは独立宣言の日付で、皇紀2605(西暦1945)年8月17日の事である。日本軍の独立支援への感謝として年号を日本の皇紀で表したのである。
ーーーここまで引用ーーー


2,000人もの日本人が、自国の敗戦後も、独立に燃え存亡の危機に立ったインドネシアの人々を助けようと行った献身的な行為をインドネシアの人々は今もなお賞賛し、その勇気が讃えられている。

日本人はこういった事実にもっと目を向けて植えつけられた自虐史観から脱却しなければなりません。

 彼らは日本人にとっても、インドネシア人にとっても“英雄”であり、両国の友情を永遠に結ぶ絆なのですから。


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