2009年04月21日

世界に愛された日本〜教科書に載らない歴史B【日本・トルコ友好秘話 エルトゥール号遭難事件】

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トルコ軍艦遭難記念碑 和歌山県串本町南紀大島

明治23年9月14日(日曜日)午後一時横浜を出港し、一路母国イスタンブールに急ぐトルコ軍艦があった。サルタン・ムハメッド5世の勅命を受けて明治天皇に対し、トルコ最高の名誉勲章奉呈のため同年6月7日横浜港に到着し、3カ月間日本での歓待を受け、日土親交の大役を果たした後、栄えある帰途につく特派大使海軍少将オスマン・パジャ一行のエルトゥール号であった。
9月16日(火曜日)熊野の海は、朝から風雨が激しく荒れ模様であった。夜になりさらに風雨は激しくなり、怒涛にもまれてエルトゥール号は進退の自由を失い、大波に翻弄されながら樫野崎灯台下の船甲羅の岩礁へと闇の中を押し流されていった。この船甲羅こそ、昔から航海者にとって海魔として恐れられていた岩礁であった。乗組員の必死の努力も空しく、同夜9時頃艦は真っ二つに裂け、10時半頃に沈没した。
オスマン・パジャ以下650名が海に投げ出された。
そのうち士官ハイダール以下69名は、波濤の中、艦の破片にすがって約3時間ほど漂流し、樫野崎灯台下の俗称鷹浦にはい上がった。
そして灯台に助けを求めたのである。

嵐の夜、裸で赤ら顔の、波にもまれ傷つき血走った目の闖入者に、看守はしばし呆然としたが、前夜来の暴風雨から付近で難破した外人であることを察し、遭難者に手当を施し始めた。言葉が通じない上に混乱状態の中で、灯台技師瀧沢正浄は、万国信号ブックを見せてやっとトルコ軍艦であることがわかった。

これより先、樫野区民高野友吉が海上方面からの爆発音を聞き、これを灯台看守に知らせるために駆けつける途中、異形の外人がよろけながら歩いているのに出会い、その人々を助けるとともに、区民に通報し協力しあって介抱を行った。
こうして17日の朝までに救いを求めてきた遭難者は69名であった。嵐の夜半、通信手段も救助のための機材も満足にない離島であり、方策もたたなかったが、あり合わせの着物を着せ、傷の治療をしながら夜明けを待ったのである。明け方、大島村長沖周、古座分署長小林従二に急を告げた。
そのうち須江、大島両区民も急を聞き応援に駆けつけた。
折良く居合わせた熱田共立汽船防長丸渋谷梅吉船長のたどたどしい通訳で、沈没した船が、エルトゥール号2344頓、600馬力、大砲を20門積む木造軍艦であるということが、断片的であるが初めてわかった。
乗組員は650名であった。

沖大島村長が直ちに県庁に打電するとともに、樫野、須江両区長と協力し、生存者を急造の担架で大島区の蓮生寺に送った。蓮生寺では、村医小林建斉、伊達一郎、松下秀等が治療に当たった。
避難の将卒69名中健全なもの6名、軽傷63名であった。大島村民は各戸に蓄えている甘藷と、飼っている鶏を提供した。
幸いなことに村民のうち堅田文右衛門が、洋食調理の心得があり、コック役を務めた。
乏しい大島の食料は遭難者のために一夜にして底をついてしまった。それにもかかわらず村民はこれら遭難者のため、蓄えている食料すべてを喜んで提供したのである。
食料の次に困ったのは衣類で、村民はありたけの浴衣を出し合い急場をしのいだ。
6尺(185センチ)豊かな大男がちんちくりんの浴衣を着ている様は、悲壮感いっぱい漂う中でただ一つの笑いであった。
その後一週間にわたり人夫百数十名により、他の遭難者の捜索につとめ、アリーベ艦長ほか219名の遺体を収容した。オスマン・パジャ以下残り362名はついに遺体すら発見されず、遠く故国を離れた異国の大島樫野の海底深く眠り続けている。
発見された遺体は、ハイダール士官立ち会いのもとに、遭難した船甲羅が真下に見える樫野崎の丘に埋葬した。
翌明治24年(1891年)、県知事ほか有志により義援金が集められ、墓碑と遭難追悼碑が建てられた。同年3月7日に追悼祭を行い、遭難した人々の霊を弔った。

 この話に同情した「山田寅次郎」なる人物が、一民間人として新聞社などの協力を得ながら全国を歩いて義捐金を集め、それを携えてトルコに渡った。 1892年4月4日、イスタンブールに上陸した山田は、外務大臣サイド・パシャに義捐金を手渡し、皇帝アビドゥル・ハミト2世に拝謁した。山田寅次郎はトルコ側の要請で、そのままトルコに留まり、日本語を教えるとともに、日本とトルコの友好親善に尽くした。この時の教え子の中に、後にトルコ共和国初代大統領となる、ケマル・パシャ(アタチュルク)がいた。


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時代は下って、イラン・イラク戦争が始まった、1985年3月17日、イラクのサダム・フセインが「今から40時間後に、イラクの上空を飛ぶ飛行機を打ち落とす」ということを世界に向かって発信した。イランに住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かったが、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国民の救出をするために救援機を出したが、日本政府は自衛隊機を憲法上の理由で派遣出来ず民間機は安全上の理由から派遣を拒否したために日本人とその家族は、空港に取り残されパニックに陥った。
 猶予時間が刻々と迫る中そこに2機のトルコ航空の飛行機が降り立った。トルコ航空の飛行機は日本人216名全員を乗せて、成田に向かって飛び立った。タイムリミットの、1時間15分前であった。


なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。この時、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。「エルトゥール号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥール号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」ーーーここまで引用ーーー


この他にも日本とトルコの友好を示すエピソードがあります。

当時、両国とも帝国ロシアの南下政策に直面していたのです。

ロシアの南下を地中海の出口で抑えていたのがトルコであり、東アジアで抑えていたのが日本だったのです。

ロシアは満州から朝鮮半島に進出してきたのですがこれと日本が対決した日露戦争です。

トルコは日露戦争で日本に対し最大限の支援をしてくれまた、海上交通の要所であるボスポラス海峡を通り過ぎるロシア艦隊や国境付近のロシア軍の動きを掴み逐一日本に通報してくれたのです。

日露戦争で日本が勝利した時のトルコの喜び様は大変なものだったそうです。

乃木将軍や東郷元帥が教科書に載り、トルコの道路には「トウゴウ通り」の名がつけられ子供の名前には好んでノギ、トウゴウの名がつけられたと言います。

今も「どの国に行ってみたいか?」の質問に九割の人が日本と答えるトルコの親日にはこの様な背景があるのです。

エルトゥール号遭難から九十五年経過してもなお、日本に対する感謝の思いを持ち続けているトルコ人の方にこちらこそ深い感謝の思いを持たざるを得ません。
また、明治の日本人が示した気概によって今を生きる我々が感謝され救われていることをもっと多くの日本人が学なくてはならないと感じます。


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2009年04月12日

世界に愛された日本〜教科書に載らない歴史A【フィリピンでヒーローになった特攻隊】

神風特攻隊はフィリピンで英雄だった
現地の「神風特別攻撃隊慰霊祭」で目撃した
「日本軍−もうひとつの真実」

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 濛々と立ちあがる砂埃と共に、日章旗とフィリピン国旗を握り締めた子供達の一団が押し寄せてきた。子供達は、バンバン村を去ろうとする、我々日本人一行に大歓声を上げて「日の丸」を振りつづけるのだった・・・。
  平成12年10月25日、フィリピンでは、パンパンガ州マバラカットをメインに、タルラック州バンバン、同州カパスの3か所で、「神風特別攻撃隊」をはじめ戦没者の慰霊祭が挙行された。私は、その3か所すべてをl日で回って歩いたのだが、フィリビンの子供達が会場を去る我々日本人訪問団に日章旗を振ってくれたのは、そのうちのバンバン村でのことだった。東南アジアの国々から、常に戦争の責任を追及されていると思い込んでいる我々日本人にしてみれぱ、かなり意外で嬉しいハブニングであった・・・。

「なぜ日本が戦争に至ったかよくわかる」

 慰霊祭のメイン会場になったマバラカットは、首都マニラの北方約80kmに位置し、戦時中には、日本の「神風特攻隊」の飛行基地があった。最初の神風特攻隊がマバラカット飛行場から出撃して56年目にあたるこの日の慰霊祭は、鹿児島県・最福寺の住職・池口恵観氏〈63)らによって執り行なわれた。熱帯の強い日差しが照りつける会場には、池口住職の読経が流れ、あたりは厳粛な雰囲気に包まれた。
  この慰霊祭には、特攻隊員の遺族ら日本からの参加者に混じって、フィリピン空軍将校やアメリカ人らも参列し、特攻攻撃で戦死した日本軍人に鎮魂の祈りが捧げられたのである。慰霊祭にはアメリカからの参加者もあった

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(慰霊祭にはアメリカからの参加者もあった)

 慰霊祭の取材にやってきたフィリピン人ジャーナリスト・ジョジョ・P・マリグ氏(25)は語る。「この式典は日本とフィリピンの関係を知るよい機会です。私は先の大戦で戦ったすべての愛国者は”英雄”だと考えています。とりわけその尊い生命を国家に捧げた神風特攻隊員は尊敬すべき”英雄”だと思います。またカミカゼ・アタックを決断した大西瀧治郎中将も本物の”武士”です」
  フィリピン空軍軍楽隊の奏でる勇壮な『軍艦マーチ』が、マバラカット飛行場を見下ろすリリー・ヒルの大地を揺さぷった。
  かつて大東亜戦争の”天王山”とまでいわれたフィリピン決戦。
  圧倒的物量にものをいわせて押し寄せる米軍に、反撃を試みる日本軍に残された手段は、もはや250kgの爆弾を抱えて敵艦に体当たりする特攻攻撃しか残されてい なかった。
 昭和19年10月25日、関行男大尉の率いる神風特別攻撃隊「敷島隊」の5機は、ルソン島西部のマパラカット飛行場から出撃し、レイテ湾のアメリカ艦隊に突入していったのである。
  この特攻攻撃を皮切りに、終戦までに陸海軍合わせて3375機の特攻機が出撃し、4279名の命が散った。もっとも、特攻攻撃を受けて沈没・損傷した連合軍艦艇は350余隻を数え、連合軍将兵を震えあがらせた。
  こうした神風特攻隊も戦後の日本では”戦争の悲劇”の代名詞としてしか語られていない。
  ところが、”カミカゼ”を生んだフィリピンではその捉え方がまっ たく違っていた・・・。
  式典に参列したダニエル・H・ディゾン画伯(70)は静かに語る。「いまから35年前に私は神風特攻隊の本を読みました。涙がとまらなかった。・・・こんな勇気や忠誠心をそれまで聞いたことがなかったからです。同じアジア人として、このような英雄がマバラカットと私の町アンヘレスで誕生したことを”誇り”に思っています」
  1974年(昭和49年)、特攻隊の生き様に感動したディゾン画伯は、神風特攻隊慰霊碑の建立を思い立ち、マバラカット市長に進言した。そして画伯が感銘を受けた『神風特別攻撃隊』の著者である中島正氏(元201航空隊飛行長)・猪口力平氏(元第1航空艦隊参謀)の協力を仰ぎながら、やっとの思いでマバラカット飛行場跡地に慰霊碑を建立することができたのだ。
  しかし、残念ながらこの慰霊碑は、先のピナツボ火山の噴火によって喪失してしまったのである。Kamikaze Memorial Society of Philippines(フィリビン・カミカゼ記念協会)の会長を務めるディゾン画伯の自宅には、自らの手になる「敷島隊」の5人(関行男大尉・谷暢夫一飛曹・中野盤雄一飛曹・永峯肇飛長・大黒繁男上飛)の肖像画を掲げた、「カミカゼ・ミュージアム」が設けられている。

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ピナツボ火山の噴火で埋もれてしまったが、特攻隊飛行場跡の慰霊碑建立に奔走したディゾン画伯(肖像画は画伯の手になる特攻隊員のもの。左上が関行男大尉)

  肖像画の前に立ったディゾン画伯は、「関行男大尉」を見つめて再び語りはじめた。「私は、ヨーロッパ・アメリカ・中国・フィリピンの歴史観を様々な角度から検証してみました。その結果、なぜ日本が立ちあがり、戦争に打って出たのかがよくわかったのです。そして日本が、欧米列強の植民地支配に甘んじていたアジア諸国を叱責した理申も理解できたのです」
  私の方に向きなおった画伯は右手に拳をつくって語気を強めた。「当時、白人は有色人種を見下していました。これに対して日本は、世界のあらゆる人種が平等であるべきだとして戦争に突入していったのです。神風特別攻撃隊は、そうした白人の横暴に対する力による最後の”抵抗”だったといえましょう」
 「神風特攻隊をはじめ、先の大戦で亡くなった多くの日本軍人をどうか敬っていただきたい。これは私から日本の若者たちへのメッセージです・・・」
  東南アジア諸国の中でも「反日的」と思われがちなフィリピンで、こんな考えを持つ人物に出会うとは思わなかった。
  さらに、私にはディゾン画伯の、「私達フィリピン人は白人支配の犠牲者ですょ」という言葉が耳について離れない。
  この”疑問符”を取り払ってくれたのは、地元通訳のマリオ・ピネダ氏(73)の証言だった。(続く)


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世界に愛された日本〜教科書に載らない歴史A【フィリピンでヒーローになった特攻隊】

 「かつて日本の統治を受けた台湾や韓国を見てください。立派に経済的な繁栄を遂げているでしょう。これは日本が統治下で施した”教育”の成果です。・・・・ですが、アメリカの統治を受けたフィリピンでは、自分たちでモノを作ることを学ぱせてもらえなかった。人々は鉛筆すら作ることができなかったのですよ。アメリカが自分達の作ったものを一方的にフィリピンに売りつけてきたからでした」

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慰霊祭でフィリピン空軍軍楽隊が演奏したのは、なんと「軍艦マーチ」だった。

  ”自由””民主主義”というアメリカン・イデオロギーだけでなく、あらゆる”メイド・イン・USA”を世界一と驕るアメリカは、植民地フィリピンに対して愚民化政策を行なっていたというのだ。
  そしてピネダ氏は、「フィリピンは今でもアメリカのパペットレジーン(操り人形)ですよ」と呟き、苦笑いを浮かべた。
  ディゾン画伯と同じく、ピネダ氏もまた”白人対有色人種”という意外な視点で歴史を見つめていたのである。
  アジア人でありながらその多くがスペイン風の名前を持ち、かつては英語を強要されたフィリピン人なればこそ、こうした地球大の尺度を持てるのだろう。
  これまでフィリピンが”親米反日的”と思われてきたのは、大東亜戦争でこの地が日米両軍の決戦場となったからにほかならない。日本軍はこの地で約50万人(全戦没者の約4分のl)の将兵を失ったが、戦場となったフィリピンの人々は一般市民を含むl80万人が犠牲となった。
  ところが、こうしたフィリピン人犠牲者の多くは、アメリカ軍の無差別爆撃や艦砲射撃によるものだったのである。むろん、この事実を地元の人々が知らないわけがない。
  日本人にとってのこうした”初耳”は、数え上げれぱ枚挙にいとまがない。
  例えぱ、米比軍捕虜を約60kmにわたり歩かせたという「バターン死の行進」。これは、一般に日本の「蛮行」といわれている。だが、ある地元民は私にこう語った。「実は、日本軍は、米比軍捕虜をサンフェルナンドからカパスまで汽車で護送しています。捕虜達を虐待するために歩かせたように言 われるが、そんなことはない」
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バンバン村の子供達は、村を去る日本人慰霊団を日章旗を振って見送った。

また日米の攻防戦が繰り広げられたサマット山頂の博物館には、 日本軍が地元住民に医療処置を施し、友好的な交流があった事実を物語る写真が堂々と掲げられてもいる。
  在比邦人何けテレビ局「WINSチヤンネル」のキャスターでウインズ・インターナショナルの社長・水島総氏(51)は、このあたりについて次のように説明する。「フィリピン人は日本で伝えられているような”反日”などではなく、むしろ親日的ですよ・・・。フィリピンの人々は戦争に対しては日本人よりも”リアリスト”です。戦争があれぱ多少なりとも悲劇はあると、現実的な考え方をしています。ですからフィリピンの人々は日本を責めようなどとは思っていません」
  異民族の侵略を受けつづけたフィリピン人の痛覚は、ダイナミックな歴史観と確固たる愛国心を生んだ。そしてそんな土壌にこそ”英雄”を敬う気風が育まれたに違いない。事実、この国の国歌にも「誉れ高い英雄達の生まれた国を崇めよ」という一節がある。だからこそフィリピンの人々は、国を守るために生命をかけた神風特攻隊を”英雄”と称えるのだろう。
  外国人の日本人観に多大な影響を与え、大東亜戦争における日本の精神的象徴ともいえる神風特攻隊は、フィリピンの人々に敬われ、そしてその勇気が称賛されている。 我々日本人はこうした現実も、認識する必要がありはしないか。

「カミカゼ・パイロットはヒーローです」

 同じ10月25日、タルラック州バンバン村でも神風特攻隊の慰霊祭が行なわれた。
  この村でも地元住民は村を挙げて日本の慰霊囲を歓迎した。そして、冒頭に記したように、帰路につこうとする我々を子供達は「日の丸」の小旗をちぎれんぱかりに打ち振って見送ってくれたのである。日本人参列者はこの光景に胸を詰まらせていた。頬を濡らす者もいた。

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「カミカゼ・パイロットはヒーロー」と言い切る女子学生達

子供達の「日の丸」行進はどこまでも続いた。式典に参加した地元サン・ロック高校の女子学生達は声を揃える。
「Brave!」(勇敢)
その中の一人が続けた。
「フィリビンにも”英雄”はたくさんいます。ですから私達も神風特攻隊という日本の”英雄”をたいへん尊敬しています・・・・」
  引率の男性教師は、「こうした歴史教育を通して、子供達に国を守ることの大切さを知ってほしいのです」と話る。
 私は学生達にもう一度訊いた。
「君達は、カミカゼのパイロットを尊敬しているのですね」
  屈託のない笑顔で皆は答えた。「もちろんです!だってあの人達はヒーローですもの・・・・」

ーーーここまで引用ーーー

日本では「先の大戦は日本の侵略戦争だった。」
または、「神風特別攻撃隊」は戦争の生んだ悲劇の代名詞のようにしか語られていません。
ですが、
「私は先の大戦で戦ったすべての愛国者は”英雄”だと考えています。とりわけその尊い生命を国家に捧げた神風特攻隊員は尊敬すべき”英雄”だと思います。」

「神風特攻隊をはじめ、先の大戦で亡くなった多くの日本軍人をどうか敬っていただきたい。これは私から日本の若者たちへのメッセージです・・・」
これらのアジアの国々の方の言葉にもう一度しっかりと耳を傾けて真実の歴史と向き合うことが必要ではないでしょうか?

むしろ、こういった思いは我々日本が本来受け継いでいなければならない大切な思いであると感じます。

彼等が命をかけて守ろうとしたもの。

日本人がしっかり継承していなければと思います。

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2009年04月05日

世界に愛された日本〜教科書に載らない歴史@ 【台湾で神様になった日本人 八田興一】

ついに北朝鮮のミサイルと思われる飛翔体が発射され、物々しい話題が蔓延していますが、そんな時だからこそ少し違う話題をと思いますw


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【八田興一氏】

 八田與一といっても日本ではだれもピンとこないだろうが、台湾ではいまも農業用水建設の恩人として人々の心の中に生き続けている。台南県烏山頭にはいまもこの明治生まれの日本人の銅像が残り、台湾農業に尽くした逸話は中学校の歴史教科書『認識台湾』に登場し、学校教育の場でも語られ始めている。

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【ダムを見下ろすようにして佇む八田興一氏の銅像】

●アジア最大のダム・用水路建設
八田與一は1886年、金沢市に生まれた。東大の土木工学を卒業後、ほぼ同時に台湾総督府土木局につとめた。56歳で亡くなるまでほぼ全生涯を台湾に住み、台湾のために尽くした。

 初めは台北の上水道建設や桃園県の水利事業などに参加したようだが、彼の名前が後世に残るのは、当時アジア一といわれた烏山頭ダムと1万6000キロにおよぶ灌漑用水路の建設にあたり、人情味のある現場責任者として農民に慕われたからである。1920年に着工10年の年月を費やし1930年に完成した工事で、巨大な建設機械がなかった当時としてはとんでもない大規模土木事業だった。しかも場所は植民地である。

 烏山頭ダムは、台湾西部の嘉南平野の東方の山地にある。渓流をせき止めた堰堤は1600メートル以上ある。セミ・ハイドロリックフィルという、石や土を組み合わせてコンクリート以上の強度を生み出す石積み工法を用いた。

 嘉南平野は台南市や嘉義市を含む台湾最大の平原である。鄭成功が明末に拠点を開き、その後オランダも城を築いたかつての台湾の中心地である。肥沃の地と思われがちだが、平原を流れる河川が少なく、しかも急流だったため、水利としてほとんど機能してこなかった。

 このため20世紀になるまで嘉南平野はサトウキビすら育たなかったといわれる。この嘉南平野は八田與一が建設したダムと1万6000キロにおよぶ網の目のような用水路のおかげで台湾最大の穀倉地に変わった。

 中華民国新聞局が発行する「中華週報」の最新号によると、烏山頭ダムから轟音をたてて躍り出た豊かな水は、嘉南平原に張り巡らされた水路に流れこみ、みるみる一帯を潤した。当初半信半疑であった農民たちは、眼前を流れる水に「神の恵みだ、天の与え賜うた水だ」と歓喜の声を上げたそうだ。


●夫と一緒に妻もまた台湾の土に帰った
 嘉南平原の隅々にまで潅漑用水が行きわたるのを見とどけてから、八田與一は家族とともに台北に去った。八田は太平洋戦争の最中の1942年、陸軍に徴用されてフィリピンに向かう途中、乗っていた船がアメリカの潜水艦に撃沈されて、この世を去った。

 3年後、戦争に敗れた日本人は一人残らず台湾を去らなければならなくなった。烏山頭に疎開していた妻の外代樹(とよき)は、まもなく夫が心血を注いだ烏山頭ダムの放水口の身を投げて後を追った。外代樹もまた金沢の人だった。享年46歳である。嘉南の農民たちによって八田與一夫妻の墓がその地に建てられた。作業着姿の銅像とともにいまも農民たちの手で守られて、命日の5月8日には現地の人々によって追悼式が行われている。

 八田與一の東大の恩師の広井勇教授がいった言葉である。「技術者は、技術を通じての文明の基礎づくりだけを考えよ」。札幌農学校で同窓生だった内村鑑三は66歳で亡くなった広井に対して「明治大正の日本は清きエンジニアを持ちました」と弔辞を読んだそうである。八田與一もまたそんな明治人だったはずである。

 嘉南農田水利会の徐金錫会長は金沢市で、八田與一の遺した嘉南大用水路について「約70年の歳月を経たいまも、平野に飲料水や農・工業用水を供給し続けている」と感謝の念を表明した。
ーーーここまで引用ーーー


台湾元総統・李登輝氏は八田与一の業績を以下の様に称えています。
【台湾に寄与した日本人を挙げるとすれば、日本人の多くはご存知ないでしょうが、嘉南地方に大正9年から10年間かけて作り上げた 八田與一技師が、いの一番に挙げられるべきでしょう。 台湾南部の嘉義から台南まで広がる嘉南平野にすばらしいダムと大小さまざまな給水路を造り、15万ヘクタール近くの土地を肥沃にし、100万人ほどの農家の暮らしを豊かにした人です。】

八田興一氏の偉業を讃え死後70年を経た現在も彼の命日には盛大な式典が開かれるそうです。


日本の近現代史は暗くて、陰鬱なものではない。「近代」という、欧米列強との弱肉強食の非情な時代にも、その中でキラリと輝く歴史の一幕があった。それは日本がアジアをリードしたトップの国で、日本だけにしかない一条の光でもある。
オークラ出版

世界に愛された日本より

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西村 幸祐 責任編集
出版社名 オークラ出版 (ISBN:978-4-7755-1348-4)
発行年月 2009年4月2日
価格 1,200円(税込)
ISBN-10: 4775513486
ISBN-13: 978-4775513484

*ブログ記事は「世界に愛された日本」からの引用ではありません。

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